ベツレヘムのお土産やさんにて「最後の晩餐」の木彫りのおみやげ
先日まで、中川健一牧師の、210回に及ぶ「メシアの生涯」(イエス・キリストの生涯を、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4つの福音書から時系列で解説したメッセージ)を夜な夜な聴いて、ついに終わりました。
1回1時間。これを定期的に毎日続けたわけではなく、この極端な私ですから、イッキに数回分ってこともあったし、本日は休みってこともたまにあったし。
だから210日はかからなかったなあ,,,
だいたい夜はふつーヨッパなので、途中で寝てしまって、目が覚めるのは夜明け。PCつけっぱで、途中から聴き直すってことも度々ありましたとも。
そして、全部聴講終わって、イエス・キリストとその弟子たち、また王や立法学者や、イエスに敵対する人たちが、これまで聖書を読むだけではなんだかモノクロームであったものが、
ものすごく鮮烈に、カラフルに生き生きと心に蘇った感じ。
どの場面も凄い説得力。以前は洗礼者ヨハネの死について紹介しました。
「サロメ」の物語です。
私は、今回は、特にイエスが捉えられて夜中から朝にかけて裁判にかけられる場面がいかに立法違反で、何度立法違反を犯したか…という点が大変興味深くお勉強になりましたが、
「最後の晩餐」の場面もとっても興味深かった。
なんたって、異民族の食事の場面、いつも興味津々。
三国志のときもそうだったんですけどね!!
でっ、「最後の晩餐」ですが、これは「過ぎ越しの食事」という、ユダヤ人の出エジプトを記念する食事で、メニューも供される順番も決まってる。
それを中川牧師はひとつひとつ解説して、この最中のどの場面でイエスが「この中のひとりが私を裏切る」と言ったのかというところまで言及しているところが、大変大変興味深く、
聖書研究がここまで進んでいるということにも感慨深いものがありました。
それ以前に、「最後の晩餐」というと、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画が世界的に有名ですが、あれは全然違うのです。
ダ・ヴィンチが何故このように描いたのか…ということまでは調べていません。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますので、コメントをいただければ幸いです。
「過ぎ越しの食事」とはゆるゆると時間をかけて床に肩肘をついて半分寝そべった状態で食するものだそうです。
ちなみに、とある聖書には「誰が裏切るのか」という弟子の質問に、「私と一緒にパン切れを浸している者」とイエスは答えたと書かれています。
日本語聖書にも、いろんな訳があるのです。
しかし、「パン切れ」という単語はは原典にはなく、これは誤訳で、これは実際はパセリのような青物を塩水の入った鉢に浸したのだとのこと。
これはオードブルのような最初のほうに供されるもので、ユダはここで「サタンが彼の中に入った」とされていて、その場を立ち去り、イエスを売りに出ていきました。
その後、イエスの弟子達への長い長い愛に満ちた最後のメッセージが語られます。
私も「最後の晩餐」に同席させて頂いたような気分になりましたとも♪
さて。
210回にわたる長い長い「メシアの生涯」が終わり、「ぽっかり」してる場合じゃない。さあ、次は何を聴こうかな…
ってことで、「再臨待望盛会」っていうヤツを聴くことにしました。
「再臨」というのは、イエス・キリストが再び降臨するということで、聖書に記されています。誰にでも認識できるかたちで…とのこと。
正直なところ、私はイエスの再臨はクリスチャンとして信じているけれど、自分がこの地上生涯を生きている間には実現しないだろうと思っているので、あまり深く考えないようにしていました。
それよりも、今現在生きているときに私には何ができるかを考えなければと、、、
ヨハネの黙示録や、将来についての預言についてはあまり考え込まない様にしようと。
聖書もまだ通読していません。特に預言書の部分は。
しかし「再臨待望聖会」を聴講してみようと思った理由は、ユダヤ人とアラブ人の牧師がお互いに相手の民族のことを祝福してメッセージを語るのです。
この方たちは、それぞれ、ユダヤ教、イスラム教のコミュニティの中で、キリスト教に回心して牧師になった方たちなのですが、そうすることがどれほどのリスクがあるのか。
それぞれ、家族、コミュニティから追放されます。
それでもイエス・キリストこそがメシアだとの思いで熱く語りまくります。
それぞれご自分ではなく、相手の民族の救いについてです。
私は、ここに生きている今、缶チューハイも飲むし、ウマイうどんやカリーは食べたい。
でも、私に何ができるのかはこれからも模索したいな。
世は終わりまで神の支配と計画に従っていくのだ。「創世記」から「黙示録」まで。
それほどまでに神は絶対的な愛と義の存在なのだと思います。
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