コーヒー豆を袋からキャニスター(茶筒のこと、ちょっ
と格好つけてみました)に移そうとしたとき、豆が床
にこぼれた。
そんな、ゴキブリが一斉に散ったような光景を目の当
たりにしたとき、間違いなく襲う気分は「トホホ」であ
る。
全く。
ところで、また映画に続きになるが、「童年往事」と
「三丁目の夕日」を比較して、映画としてみた場合、
「童年往事」の方が遥かに上のようなことを書いたが、
昨日「日本アカデミー賞」をやっていて(見る気はな
かったが、最後の五分ばかり見てしまった)「三丁目
の夕日」の続などが話題になっていたので、もう少し
突っ込みたくなってしまった。
何故かというと、一見(本当は全然違うのだが)時代
に共通性があるかのように感じるからだ。
どちらも、昭和の懐かしい時代(主に団塊世代からす
るとなのだが、何故か、懐かしい時代という時代はこ
の頃を指すようになっている)が背景である。
日本と台湾の違いはあるが、見かけは殆ど同じ国に見
える。
「三丁目」は都会で、「童年往事」は田舎の風景。
どちらも郷愁を誘う。
これが問題なのだ。
同じ郷愁でも、映画の中に占める位置が大きく違う。
「三丁目」は、郷愁そのものを中心にすえているのだ
が、「童年往事」は結果的に郷愁を感じるというもの
で、郷愁を描いているわけではない。
強いて言えば、郷愁の向こうの世界である。
だから、いつ見ても新鮮さは損なわれないし、場所は
関係なくなる。
一方「三丁目」は、郷愁にどっぷり浸かって懐かしめと
いう映画だ。
そして、笑い、涙しろ、そうすれば感動を味わうこと
が出来るであろう、なのだ。
「テーマパーク」とどこが違うという話なのだが、実
は同じだ(あえて断言)。
全てが仕組まれた装置。
その、手順にそって動けば楽しめますよ、なのである。
しかも、そこにあるのは、まるで過去に存在したかの
ようなユートピアのような世界。
そうやって考えると、テーマパーク全盛(と言っても
ディズニー一人勝ちだが)の時代にぴったりの映画で
あると言えそうだ。
或いは、マーケティングの勝利。
娯楽作品として成功しているのだからそれだけで価値
がある、というのはある意味間違いないのだが、まる
で名画(人それぞれの基準であるが)のような扱いで
本当に良いのか、とついつい思ってしまう。
絶対的少数派であることも分かっているが、こんなん
で良いのだろうかというのは、常々感じていることだ。
はっきり言えば、団塊世代の懐かし親父共が駄目なん
じゃないか、ということなのだ。