ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

カフカ「アメリカ」

2008年07月18日 | 芸術


「滝壺ビオトープ日記」
姿が見えないと思っていた巻貝(多分、サカマキガイと
いう外来種)は、ちゃんと生きていた。
貝のくせに活発に動き回るので発見しにくかったのだ。
これはひょっとして、環境的に合っていないことによる
行動なのかもしれない。

ところで、この前カフカの「アメリカ」を読み終えたと
き、同じくカフカの「城」に挑戦して、その三分の一か
ら進んでいないmのことを思い出した。
このところ顔を見ていないので、ひょっとして死んでい
るのではないかと思いメールをすると、生きてはいるよ
うであった。
「城」よりは「アメリカ」の方が読み易かったかもしれ
ないので、先にこちらを推薦しておくべきだったか。
遺品に読みかけの「城」というのも、なかなか文学的
な感じはするが。

「アメリカ」が「城」や「審判」に比べて読みやすいの
は、「ロードムービー」のようなストーリー展開になっ
ているからだ。
他の作品は、同じ場所で延々同じことを繰り返している
ような(その眩暈の感覚が魅力的といえるのだが)作品
だが、この「アメリカ」は、主人公が移動していった先
々でいろんな体験をするという、ストーリーの構造とし
てはオーソドックスなものを持っている。
だから「ロードムービー」的であるのだ。

小学生の読書感想文的にまとめてみる。

主人公「カール.ロスマン」(この名前、もう一生忘
れなさそう)は、お手伝いを孕ませたことによって、
父親から半ば厄介払いされ、単独アメリカに船で渡る。
その船中での、火夫とのやり取りが第一章。
その火夫の労働条件などを抗議しに船長室に行くと、
そこでカールは、音信普通だった、アメリカで事業で
成功して今は国会議員までやっている彼の叔父に会う。
お手伝いによって、甥がアメリカに行くことを知らさ
れていて迎へに来ていたのだった。

叔父のところに厄介になり、英語の勉強もしてニュー
ヨークの生活にもにも慣れてきた。
そんなある時、叔父の知り合いの、郊外の家に招待さ
れる。
そこで、カールは家の娘に柔術でやられる。
とこれは、本筋には関係ないエピソードだが、そんな
関係ないエピソードの集合体がカフカの全体の小説世
界であるのだ。
その家にいるとき、何故か叔父が、カールと縁を切る宣
言を他の者に託し伝える(唐突である)。
後ろ盾がなくなったカールは、仕事を探すため、ある
町に向かう。

最初の安宿で、同じく職探しの二人組のフランス人と
アイルランド人に合う。
彼らと暫く行動を共にするが、信用できずに別れ、カー
ルは親切な同郷の大きなホテルの料理主任の女性に誘
われ、そのホテルのエレベーターボーイとして勤めるこ
とになる。
そのホテルの名は「HOTEL Occidental」。
そこはエレベーターボーイだけで数百人という、巨大
なホテル(決して現実的な話ではない)。
真面目に働いていたある日、別れたアイルランド人が
カールに会いに来る。
しかし彼は泥酔し、ホテルに迷惑をかける。
その彼を連れて行くために職場を離れたカールは、職
場放棄とみなされホテルを首になる。
アイルランド人の目的は、カールをホテルから連れ出
すことであったのだ。

彼は、もう一人のフランス人とあるマンションに住ん
でいた。
フランス人が、歌手の紐のような存在となっていて、
その歌手の身の回りのお世話をする人間を探していた
のだ。
それで、カールが狙われていたのだ。
結局、彼らの策略で、奴隷のような囚われの身分となっ
てしまったカール。
しかし、どうにかこの身分から開放されたい。
そんな時、ある巨大な劇場の団員募集の張り紙を見つ
ける。
一日限りの、誰でも採用されるという募集。
勇躍乗り込んで、採用されることになったカールは、
すぐさまその劇場のある町に向かうため列車に乗り込
む。
そして、その車中の話で小説は終わる。

聞くところによると、小説は途中であるらしいが、こ
れこそがカフカらしい終わり方であると思う。
決して目的地に辿り着けない男の物語、終いには、目
的地の意味すらなくなる。
そうやって見ればこの「アメリカ」も、読みやすいが
というのもおかしいが、充分カフカの世界を味わえる
小説である。
それに改めて感じたのは、ストローブ=ユイレの「階級
関係アメリカ」が、如何に小説の世界をそのまま現して
いるかということだ。
オーソン.ウェルズの「審判」とストロ-ブ=ユイレの
「階級関係アメリカ」、間違いなくカフカ映画の二大
金字塔である。
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