ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

アンチョビペースト

2007年04月15日 | 食べ物


やっとT君も、臭いの元「ポンレベック」を持って行っ
てくれた。
やれやれ。
その時、おすそ分けで少し貰って食べてみたが、好み
からすると、もう少し熟成させた方が良い。
しかし、あまり食べなれてないT君からすれば、むし
ろ良い状態かもしれない。
ちょっと臭うカマンベール位の味だったから。
それにしても、味的にはその程度のものなのにね。
それが、一度冷蔵庫に入れると、頼みもしないのに存
在感を遺憾なく発揮する。
ウォッシュタイプの底力、恐るべし。

「ポンレベック」を取りに来たときT君は、「アンチョ
ビペースト」を持ってきてくれた。
松本の輸入食材店に行くと言っていたので、行ったら
買ってきてくれるように頼んでおいたのだ。
その「アンチョビペースト」は自分用ではなく、こち
らが人から頼まれたものだ。
田舎だと、こういうものを購入するのも一苦労なのだ。
インターーネットで買い慣れた人は良いが、そうでな
い人はそれこそ途方にくれてしまう(ということもな
いが)。
流石に、缶詰のアンチョビは普通にスーパーで買える
のだが(質的な問題は置いといて)、ペーストとなる
となかなかなのだ。

改めてその「アンチョビペースト」のパッケージを見
てみる。
原材料、アンチョビ、食塩、ひまわり油。
余計なものは入ってないようだ。
日本のものは特にだが、このての調味料(アンチョビ
ペーストは調味料、謂わば濃縮魚醤だ)には必ずと言っ
て良いくらいアミノ酸が添加してある。
つまり、旨味成分。
これが入ると、味はまろやか、旨味も増す。
しかし、不自然な味。
あとよく使っているものの代表としては、瓶詰めの雲
丹とか、塩辛などがある。
海産物センターとか、その手のところに売っているも
ので、使ってないものを探すのは至難の業だ。
そもそも塩辛でそういうものを使う理由が分からない。
発酵食品は、自然にアミノ酸が生成されるのだから添
加する必要は無いだろう、と思うのだが、一般的には、
更に添加した味にしないと旨味を感じないということ
なのだろうか。
だとしたら、味覚感度の低下以外の何ものでもない。
というか、本当は、とっくの昔からそう思っているの
だ。
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スティルトン

2007年04月14日 | 食べ物


T君の「ポンレベック」は、相変わらず冷蔵庫で「良
い」香りではなく匂いでもなく、臭いを発している。
近いのは、矢張り納豆かな。
昔のぼっとん便所も、これに近い臭いだったような気
がする。
更にそれが、微かにアンモニア臭を発すると、当時の
小学校のトイレを思い出す。
「ポンレベック」から「失われた時を求めて」。
「マドレーヌ」と「ポンレベック」では、匂いにおい
ては大きく違うが、語感から受ける印象はそんなに違
わない。
そして、その匂いによって子供時代を思い出すという
ことに関しても同じ。
しかし大きく違うのは、その場所。
方や、子供の頃の母親との幸福なひと時、こちらはア
ンモニア臭が漂う小学校の便所。
えらい違いだ。
甘美さの一かけらもない。
そう言えば、当時の便所はコンクリートの床でいつも
濡れていた。
そんなところを、下手をすると裸足で歩いていた。
今考えても、気持ち悪い。
子供は、恐いもの知らずというか不潔知らずなのだ。
特に当時の子供は。

そんなことではなかった。
今回、T君の「ポンレベック」に合せ、こちらもチ
ーズを注文したのだ。
それが「スティルトン」だ(実はもう一品「オッソー
イラティ」も頼んだのだが)。
イギリスの青カビチーズ。
一応世界三大青カビチーズの一つだ。
イギリスにも美味しいものがある、と認識したきっか
けを与えてくれたものだ、と言いたいところだが、他
には今のところ見つからないので、例外的に美味しい
ものということにする。

実は、青カビチーズの中で一番好きなのがこの「スティ
ルトン」で、特に「Mature」と表示された熟成タイプ
が好きなのだ。
今回もその「Mature」を頼んだ。
相変わらず、好みの味だが、どうしても考えてしまう。
イギリス人がどうしてこんな味を作り出したのかと。
彼らの嗜好にあっているのだったら、もう少し他の食
べ物にも美味しいものがあって良いはずなのだが。
単に、他のものを知らないからか?
しかし、スコーンにはこのチーズ、合わなくもないか?
確か、「スティルトン」にジャムかなんかを合せる食
べ方があったような。
そういう食べ方は、如何にもイギリス的だ。
と、断定するのも、ステレオタイプの典型的な見方と
言う気もするし。
要するに、イギリスに関しては今のところ、ステレオタ
イプの見方が強く、それを壊すような新たな経験知識
がないということなのだ。
この先もあまり期待は出来ないが。

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ツバメその後

2007年04月13日 | 生き物 自然


順調に巣作りするかと思っていたツバメは、突然姿が
見えなくなった。
どうもおかしいと思って、駐車場の天井を観察すると、
ツバメの代わりにスズメが飛び回ってる。
おいおいまたか。
というのは、過去にも一回あったのだが、スズメが縄
張りを主張してツバメを追い出してしまうのだ。
つまり、スズメが自分達の巣を、同じ天井の隙間に作
ろうとしている、というわけなのだ。
スズメもわざわざこの時期に、と思うのだが、繁殖期
が同じだったらこういうことになってしまうのも、致
し方ないということになるが、こちらとしては、ツバ
メに優先権を与えているので、スズメが巣を作れない
ように隙間をふさぐことにした。

ツバメがいない時だったら、いくらでもスズメに貸す
が、毎年毎年来てくれるツバメのことを考えると、ど
うしたってツバメに肩入れしたくなるだろう、それが
人情と言うものだ。
ここはスズメには遠慮してもらって、ツバメに巣の空
間を与える、それが大家としての基本姿勢なのだ。

しかし、スズメもなかなかしぶとく、結構紙を詰めて
万全だと思ったものが、まだまだ完璧ではなく、僅か
な隙間から出入りできるらしく、巣の材料を運んでい
る。
結局、その僅かな隙間を、ぼろ布で再びふさぐ作業を
翌日しなくてはならなかった。
二日がかりのスズメ対策だ。
スズメにはなんの恨みも無いが、そういうことなので、
ここを巣の場所に認定することは止めてね。

話は変わるが、T君から頼まれていた「ポンレベック」
が到着したのだが、早く取りに来てくれないと、冷蔵
庫が臭いで充満してしまう。
チーズ単独で嗅ぐ分には良いが、他の食品にその臭い
が付くとたまりません。
早いとこ、持って行ってちょうだい、T君。

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三隅研次

2007年04月12日 | 芸術


昨日の「三隅研次」だが、この名前の「隅」の字、ちょ
くちょく「隈」と間違える。
建築家に「隅研吾」という人がいるが、どういうわけ、
かずっと「隈研吾」のつもりで「クマケンゴ」と読ん
でいた。
頭の中では「クマケンゴ」なので、先日たまたまテレ
ビで取り上げられていた番組でも、しばらくは「スミケン
ゴ」が自分の中での「クマケンゴ」であることが分か
らなかった。
やっと漢字を確認して、「隅」と「隈」を混同してい
たことに気が付いた。
ここまで来るのに何年かかったことだろう。
「大隈半島」だって、ずっと「オオスミハントウ」で
あったのに、何故「クマ」になってしまったのだろう
か。
今となっては謎である。

そんな建築家関連で、この前の「立会人」の時のこと
を思い出した。
市職員との会話。

「地元出身の<伊東豊雄>とか<藤森照信>をもっと
使えば良いのに」(私)
「ローカルの設計士まかせじゃなくということですか」
(市)
「そう、ローカルのセンスじゃしょうがないでしょう」
(私)
「まあ、確かにそういう面はあるかもしれないですね」
(市)
「多分、普通見慣れた建物じゃないと、文句は出ると
思うけど、それなりの建物と言うのは、はっきり言って
誰もが納得というものではないですからね」(私)
「個性的というのはそういうことですね」(市)
「ここが難しい問題なんだろうことは分かるんだけど、
センスの良さとか、質の高さって、客観的に提示でき
ないから、結局名前を頼りにするんだけど、あの二人だっ
たら間違いないでしょ」(私)
「公共の建物の難しいところです」(市)
「はっきり言って、田舎の普通の人のセンスに合わせ
てる限り、レベルの高いものなんか出来ないですよ」
(私)
「そこが、公共の建物の難しいところです」(市)
「例えば駅舎なんか<藤森照信>にまかせたら、土壁
を生かした雰囲気の良いものを造ってくれますよ、
多分、磯崎新の湯布院に匹敵すると思うんだけどね、
観光面でもかなりインパクトあると思うけど」(私)
「なるほど」(市)
「風林火山で一過性の便乗商売するより、遥かに恒久
的ですよ」(私)
「なるほど」(市)

と、いろいろ主張したが、どこまで通じたか、どうせ
うるさいこと言ってるな程度で、軽く聞き流されてる
んだろうなあ。

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剣鬼

2007年04月11日 | 映画


この前BSで、魅力的な映画が二本、立て続けに放映され
た。
平日の午後なので、早速録画することにした。
その映画というのは、三隅研次の「剣鬼」とゴダールの
「勝手にしやがれ」。
この三隅研次という監督は、晩年はテレビの必殺シリー
ズなども手がけた、職人的娯楽作家として知られている
のだが、当然のこと多くの作品を手がけていて、その多
さゆえか、中には全く印象に残らないものもある。
しかし、その逆の映画も同じようにあるという、ちょっ
と不思議な監督でもある。
普通、例えば「森一生」などは、娯楽作品であってもど
こか違うという、その監督ならではのセンスが出てくる
のだが、「三隅研次」の場合、全くセンスを感じないよ
うな作品もあるのだ。
同じ監督の作品か?と思ってしまうような落差があるの
だ。
多作の故か、とかモチベーションとかいろいろ考えるが、
よく分からない。
その不思議さが魅力だ、と思えないことも無いことも無
い、んどっちだ?

例えば、「市川雷蔵」と組んだ映画には魅力的なものが
多い。
つまり、1960年代のものだ。
「研鬼」もその頃の映画だ。
他には「大菩薩峠」シリーズなどもある。
雷蔵以外では、勝新太郎の「座頭市」シリーズなどもい
くつか手がけている。
実際「座頭市」も、その頃のが断然面白い。
特に最初の「座頭市物語」は必見だ。
そう言えば森一生も「座頭市」は撮っている。
「続.座頭市物語」、これも必見。
この頃は、日本映画に才能が集まっていたのかな。
単なる「昔は良かった」話ではなく、テレビ黎明期、映
画業界最後の盛り上がってた時期ということなのだろ
う。

あと三隅研次の映画では、「鬼の棲む館」という、殆ど
知られてない映画があるのだが、これがどうにもこうに
も魅力的な映画で(個人的に)、時代劇なのに登場人物
が殆ど三人という、掟破りの相当変な映画だ(つまり個
性的)。
テレビで是非放映してほしいと思うのだが、知る限りで
はやってない(と思うのだが)。
興行的に駄目であったろうことは、確信を持って言える
が、今だったら深夜枠にはうってつけだと思う。
掘り出し映画ナンバーワンなのだが。

と言いつつも、実はまだ「剣鬼」を見てないのだ。
ゴダールの「勝手にしやがれ」は3回ほど見たのだが、
二本同時に見ようと思ってるので、まだこちらの態勢が
ちょっとという状態なのだ、ということでもなく、単に
見る気が起こらない、つまりそういうことなのね。

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オリンピック

2007年04月10日 | Weblog
石原再選で、オリンピック開催ではなく、招致は、本
格化するのだろうか(実際、開催地になるかどうかは
置いといて)。
再選を一番喜んでいるのは、多分マスコミ、主にテレビ
ではないだろうか。
スポーツ至上主義が、今やテレビの基本思想だから。
電通辺りが、その経済波及効果が何十億だか何百億と
煽ることも目に見えている。
関係者は、お祭りムードで一気に押したいところだろ
う。

気になるのは、たまにはこういうもので夢を見ようじゃ
ないかという石原発言。
そもそもオリンピックってそんなに夢のようなことか?
取り敢えず、出場者にとってはそうであろう。
しかし、途上国でもない日本で、未だに、素朴にオリ
ンピックを夢のような出来事と捉える人はそんなに多
くいるのだろうか。
独裁国家が、現実を見ないようにスポーツに目を向け
させる図式に近いものを感じる、と言ったら大袈裟か?

確かに、前回の「東京オリンピック」は「夢」などと
いう言葉が違和感無く受け入れられた時代、状況だっ
た。
素朴な時代だったのだ。
郷愁と共に、それぞれがあのシーンを思い出すことが
出来る。
あのシーンと言うのは、女子バレーボールの優勝シーン
であったり、柔道無差別(重量級?)でヘーシンクに
負けたシーンとか、マラソン円谷の最後に抜かれるシ
ーンとか、それぞれが印象的なシーンを直ぐに思い出
すことが出来る。
多分、こういう部分、つまり思い出を共有するという
ことが、同じ日本人としてすばらしいことなのだ、と
主張したいのだろう、石原慎太郎は。
しかし、今やスポーツ界は、当時と違い市場原理、金
の力で動いている(という部分がずっと大きくなった)。
「夢」という言葉にはそぐわない要素が、あまりに見
えすぎている。
情報が多い分、そう単純には信じられなくなっている
のが今のスポーツ界なのだ。
多分、当時の「東京オリンピック」などでも、特に共
産圏の国では、相当薬に頼ったダーティーな側面はあ
ったのだろうが、何せ情報がなく、見てるほうも素朴
だったから、夢で全てを覆いつくせたということだろ
う。

まあ、そんなひねくれた見方をせず、「純粋」なプレ
ーを楽しめば良いじゃないか、と必ず大人的なことを
言う人がいるが、それが出来たら苦労はしない。
現に違うだろうということなのだが、見るより自分で
やる、これからのスポーツのあるべき姿はこれだろう
と思うのである。


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立会人

2007年04月09日 | Weblog
昨日は、生まれて初めて、選挙の「立会人」などとい
うものをやってしまった。
内容は、朝6時半に会場に集合して、夜8時の投票締
め切りまで監視(実際は座っているだけ)するという
もの。
途中、トイレは自由、それと昼食と夕食の時間がある。
兎に角座り続けるのが仕事。
感想は、「いやー長い」の一言。
基本的に、不正が当たり前に行われるどこかの国では
ないので、選挙監視委員と同じ役割なのだが、緊張感
は殆ど無い。
ひたすら座り続けるのだ。
本でも読みながら、だったら良いが、勿論そんなこと
はできない。
まあ、ある種の拷問に近いかもしれない。
もう一人いて、二人でやるのだが、その人はこちら以
上に辛そうだった。
ヨーロッパに行く機内の状態(但し映画なしの睡眠不
可)を思いだし、「エコノミー症候群」に気をつけた
ほうが良いですよ、などと話した、なんせ大分年のよ
うだったので。

コンスタントに投票する人が来れば良いのだが、来な
い時間もある。
そんな時間帯が一番きつい。
睡魔との闘いだ。
午前はまだ良いが、午後になると係りの市の職員にも
疲労感が漂い始め、目を閉じて今にも眠りそうだ。
勿論こちらも同じ状態だ。
何かに興味を見出そうとして、記載装置(要するに名
前を書くあの囲われた空間)が6っつ並んでいる中で、
どの場所が一番使われるのかと、統計を取ってみようと
(頭の中で)したりしたが、当たり前のように左側の
3っつと(左が近いので)、特別面白い結果も得られ
ず、長続きはしなかった。

それにしても、担当地区の実際足を運ぶ人の年齢層は、
高い。
60以上と20代の比率は、ざっと見た感じ10対1
位だ。
元々老人が多いのだが、極端ではないか。
結果、それら老人層(組織票にもつながる)の動因が
反映され、元保守系が断突で返り咲き。
田中康夫ちゃん系現職は落選という憂き目に遭った。
長野県全体で見ても、今回の選挙で、康夫ちゃん色は
一掃された雰囲気だ。
一体あれは何だったのか。
これでまた、以前の業界べったり、県民無関心の、や
りたい放題県議会運営が始まるのかと思うと、ちょっ
とうんざりだ。
東京は東京で、傲慢に拍車がかかる知事の高笑いだし、
何とも疲れる、日本の長い一日であったというわけだ。
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ポンレベック

2007年04月07日 | 食べ物


チーズに対する興味が増してきたらしく、T君は更に
違うウォッシュタイプを希望した。
前回は「ラングル」という、シャンパーニュ地方のも
のだったのだが、今回は「ポンレベック」という、もっ
とポピュラーなウォッシュタイプ。
一応、ウォッシュタイプの中では、癖も味もおとなし
めのチーズとなっているらしいが、どうなんだろう。
独特の匂いはあるし、充分ウォッシュタイプとしての
個性はあると思うから、「ラングル」で匂いがと言っ
ていたT君は美味しいと思うだろうか。
それより、もし好みに合わなかった場合、一個単位で
注文しないといけない「ポンレベック」の処理をどう
するのか、そちらの方が心配だ。
なんせ、一個400グラムだから、結構喰い応えある。
好きな人だったら、熟成の度合いを楽しみながら食べ
る、ということが出来るが、熟成と比例して匂いもき
つくなるから、その匂いが気になる人だったら、逆に
熟成に反比例してより食べられなくなる。
まあ、駄目だったら、こちらが貰えば良いか、という
話だが。

と今、「匂い」という漢字を当てたのだが、この場合
は「臭い」なのか、とふと疑問に思った。
最近、パソコンで何気なく漢字に変換するのだが、こ
れで良かったのかとちょくちょく気になる。
それで「匂い」と「臭い」だが、この違いはどうやら
「匂い」が好ましいもので、「臭い」がそうでないも
のに使うのが正しいようだ。
ということは、上のチーズに関して使った「匂い」は、
そのチーズに対する捉え方を表しているという意味で、
それが好きな人だったら「匂い」でも間違いではない
ということになる。
しかし、一般的に良い「におい」とはなってないこの
チーズの場合(靴下の臭いとかに喩えられる)は「臭
い」の方がより適切であるとも言える。
しかし、中には靴下そのものの「におい」が好きな人
だっている。
そんな、少数派というか特殊な嗜好の持ち主のことま
で考えたら、その都度漢字一つで「注」を作らないと、
という面倒くさい事態となる。
つまり、いちいち意味を考えると、それこそ先に進ま
ないということになってしまう。
ウォッシュタイプに関しては「匂い」よりは「臭い」
が、一般的。
ここは矢張り、適当に誤魔化しながら行くのがベター
なようだ。

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悲情城市

2007年04月06日 | 映画


兄嫁さんの台湾話を聞いていると、クーフンという街
に行ったのだが、そこが中々良かったと言う。
漢字にすると「九份」。
で、一体そこはどういう所かと聞くと、映画の「何と
か夜情」の舞台で有名となった所だと言う。
何とか夜情?
そんな映画あったか、それなりに有名な映画なはずだ
からと思い、「悲情城市」のこと?と聞くと、そうそう
ということになった。

台湾と言ったら、「ホウシャオシェン」か「エドワード
ヤン」が代表的監督だ。
二人を比べれば、知名度ではホウシャオシェン。
そして彼の映画で、印象的な街が出てくる映画となる
と、真っ先に、「悲情城市」の狭い坂の両側にぎっし
り店の並ぶあのシーンが思い浮かぶ。
果たして、それが「九份」だったのだ。
あの映画で、観光名所になっているとは知らなかった。
尾道のような地形で、日本統治下に発展したらしく、
日本人からしてもどこか懐かしさを感じる、独特の雰
囲気を持った街ということだ。

同じ坂道では、尾道が舞台の映画「転校生」なんかよ
り、成瀬巳喜男の「浮雲」に出てくる伊香保温泉のあ
の坂道の方が近いと、「悲情城市」を見た時にも感じ
たが、監督の質を考えても「伊香保温泉」と「九份」
の方が、映像としての力が同質な感じがする。
要するに、どちらの映画もそのシーンがすばらしいと
いうことだ。

例えば、転校生」で尾道が人気化するのは解るが、
「悲情城市」であの街が人気化するのは、今ひとつ理
解できないと言うか不思議な感じがする。
何故かと言うと、「悲情城市」が一般受けする映画と
は思えないから。
台湾が、日本の統治下から解放され、いよいよ独立か
というところで、中国本国人(国民党)からの弾圧を
受ける。
映画は、その2.28事件を背景に、翻弄され離散す
る一家を描いていくのだが、日本ではごく一部の人し
か見てないと思うが、台湾ではそんなことなかったの
だろうか。
自国の歴史的大事件が題材になっていると言う点で、
それなりに話題になったということなのだろう。
いずれにしろ、「悲情城市」のインパクトが、日本と
は比べ物にならないほど大きかったであろうことは、
まず間違いない。
そして、個人的にも、「九份」にはちょっと行ってみ
いと思った。


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サティ

2007年04月05日 | 音楽


「自分探し」は、結局理想化された自分という幻想を
追い求めているに過ぎない、などと、昨日の続きを考
えて車を運転してても、決して面白いわけではない。
ということで、カセットから聴こえてくるイーノの
「Here come warm jet」(で良かったか)に耳を
澄ます。
Brian Enoのヴォーカルはやはり好きだ。
外は、季節外れの吹雪模様。
でも、積もるほどではない。
瞬間的な吹雪。
お腹もすいたので、どこかに寄ろう。
しかし、特別寄りたいところも浮かばない。
カレーにでもするか、と専門店があったことを思い出
した。
現地の人間がやってる店だ。
中盤省略。

ヒヨコマメのカレーを食べたが、前回(マトンのカレー
だが)は結構スパイスが効いて、本場っぽかったのだ
が、今回のヒヨコマメは、全くスパイシーさがなく旨
くなかった。
こくが無いカレーは、スパイスの鮮烈な香りがないと
旨くならないものだとよく分かった。
その後、T君のところ(カフェ)により、エスプレッソ
を飲む。
カレーの話をしながら、しばし流しているビデオ「ミツ
バチのささやき」を見る。
結局、後半30分ほどを最後まで見てしまった。
スペインの風景が、あまりにも魅力的で、ついついそ
の光と影の世界に引き込まれてしまった。
自分でヴィデオ持ってるくせに。

そして帰るとき、CDをいくつか借りる。
その中に「サティ」があった。
サティがブームになったのはいつだったか。
「3つのジムノペティ」なんか、名前は知らなくても聴
けば「ああ、あれか」とかなりの人が思うはずだ。
環境音楽のルーツはサティにある、と前々から思って
いるが、「乾からびた胎児」(こういう曲もある)な
どというタイトルをを付けるセンスも凄いね。

そしてその日の夜、というより夜中、ふと目が覚めて
NHKBsを付けると、そのサティの「3つのジムノペティ」
がかかっていた。
出だしですぐに判るのが「ジムノペティ」。
偶然を通り越して奇跡。
と言うほどのことではないが、そう思いたくなる「ジム
ノペティ」。
ところで、この「ジムノペティ」ってどういう意味なん
だ。
映像は、パリの風景。
サティの音楽にパリの風景。
環境ヴィデオに環境音楽。
あまりに...。
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美しい自分

2007年04月04日 | Weblog
ここまで来ると、言葉も無い。
「美しい自分探し」。
恥ずかしいと思わないのかね、そんな言葉をどうどう
と発することが。
そもそも、「自分探し」ということが、まるで当たり前
の事実のごとく思われてるのが、問題なのだが、規定事
実化というか、真理のように流通している便利な言葉は、
大体怪しいものなのだ。
その言葉によって、思考が誘導されていることに気付か
ず、まるで自分で考えたかのように錯覚し、本人の気分
は高揚するが、実は思考停止に陥っている、なんてこと
が多いのだ。
本人が充実感を味わうのだからそれで良いのではないか、
ということだけ見れば、他人がとやかく言うことでもな
いが、大体自分が良いと思うと、他人に奨めるのが人間
なので、「あなたも自分探ししたほうが良いんじゃない」
などということも言われかねない。
信じた人間の明快な論理(あまりに単純な)は、信じる
に足るほどの緻密さが無いのが普通。
個人のレベルに収めてほしいということなのだ。

たとえば中田が「自分探しのたびに出る」などと言った
時は、完全に「とほほほ」となった。
個人的評価はあの一言でがた落ちだった。
高揚、陶酔のにおいがしたのだが、そういうのは宗教的
空間ならば有効だったろう。
多くのファンがあの言葉で感動したと言う事実が、それを
物語っている。

で、今回の「美しい自分探し」だが、単なる「自分探し」
のさらに上を行っている。
恥の上塗り。
なんだか程度が低い。
「美しい自分」などという抽象表現でなんとなく納得さ
せようという、底の浅い魂胆がみえみえだ。
美至上主義か。
実際は、思想的な強制をしたいだけのことなんだろう。
人が統制された美を望んでいるだけなんじゃないのか。
「美しい日本」の彼が描いているイメージはそういうこ
とだろうと思う。

こちらが思う美しい日本は、もっと具体的に、ゴミが
路上に無い、不法投棄がない乱開発されてない野山、
広葉樹林の森、無秩序な建物が乱立しない郊外、つま
り自然が豊かに息づいている環境なのだが、基本的に
業者側の彼らからこういう具体的な話を聞くことはな
い。
これだけで、信じるに値しないのだが、そう思わない
人が多いという事実が、これまたどうにもこうにもな
のだ。

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インゲン豆

2007年04月03日 | 食べ物


この前「トリップ」改め「トリッパ」の煮込みを作っ
た時、インゲン豆を求めて彷徨った(その時書いたが)。
大手スーパーを当たり、ローカルスーパーも当たり、一
時は絶望的な気持ちになったものだ(嘘です)。
そしてとうとう見つけた時は、砂漠のオアシスの如く
輝いていた、そのインゲン豆は(大袈裟)。
とこんな経緯があり、田舎でも、インゲン豆の需要が
なくなりつつあるのかという結論に達したのだが、そ
の後、新たな情報が続々もたらされた。

あそこのスーパー(ローカル)にはあるよとか、あそ
この薬チェーン店にも置いてあるよ(何故かあるのだ)
とか、置いてあるところがまだ結構あることが判明し
た。
どうやら、置いてないところばかりを選んで(結果的
に)彷徨ったというのが、今回の真相のようだ。
そして極めつけは、畑のインゲンがあるよという事実。
家の畑(兄作)の自家製のインゲン豆があると言うで
はないか。
種用にとっておいたものの残りということだ。
なんだなんだ、自家製の豆があったのか。
「灯台下暗し」という言葉がふつふつと湧いてきた。
自家製のものなら出自は明らかだし、安全だし、言う
こと無しだ。
一体、あの時彷徨ったのはなんだったのだろうか。
と、再び当時のことを思い出してしまった。
情報収集能力欠如か、これも。

以前だったら、「乾物屋」に行けば済むことだったの
だが、今やその「乾物屋」そのものがなくなりつつあ
る。
専門店の良さは、間違いなくあるのだが、食生活の画
一化とインスタント食品の普及で、手間のかかる食材
を扱う店の需要はどんどんなくなり、手広く扱うスー
パー(決して専門的ではない)と、最大公約数的もの
を用意する「コンビニ」しか生き残れない世の中になっ
てしまった。
そして、専門店の代わりはインターネット通販(これ
に関してはかなりお世話になっている)。
そうなると、街の風景も画一化され、どこも同じよう
な顔となる。
その後、撤退した(こうなるのが多い)スーパーの建
物は廃墟となり、廃業したコンビニ(これも多い)は
落書きされ、辺りは荒廃ムードに包まれる。
そんな場所はすでに散見される。
つまり、それらの店が出来てその明かりで周辺が不自
然に明るくなっても、明るい未来は想像できないのだ。
インゲン豆から未来が見えた、か?
コメント (1)

読み逃げ

2007年04月02日 | Weblog
mixiの世界では、この「読み逃げ」というものが
存在するらしい。
mixi内のブログに訪問して、なんらコメントを残
さない行為のことを指す言葉らしいが、なるほどね、
と納得してしまった。
ブログの原形をより保つために作られたmixi内な
らではの言葉だ。

閉じられた世界で、仲間内で楽しもうというのがmi
xiだ。
そもそも、関係ない人間が入らないように作られてい
るので、基本的には、知人的グループの輪。
そうなると、人間関係は、普通のブログの世界よりは
密になる(それも目的の一つ)。
そんな認識が浸透すると、自分のブログは自分の部屋
である、という感覚が知らず知らずの内に出来てしま
うのは、容易に想像できる。
訪問者は、自分の部屋に来たお客であると。
そうなると、「読み逃げ」というのは、部屋に入って
も一言もしゃべらず出て行ってしまった客に等しくな
る。
つまり、失礼な客である。
そしてその非礼な「読み逃げ」行為は許せない、とい
うことになるのだ。

はっきり言って、笑っちゃうのだが、mixiの性格
上、こういう問題は不可避であるとも思う。
密な人間関係を求めるのは、mixiであれば自然な
ことのだから。
そういう、面倒くさい人間関係がいやなら、mixi
に入らなければ良いのだ。
誰が来たのか、記録に残されるシステムがある限り付
起こりうる問題であるし、大きくなればなるほどいろ
んな問題が起こるというのも、これまた不可避だ。
でも、関係ない人間から見ると、やはり笑っちゃうの
である。

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第一陣

2007年04月01日 | 生き物 自然


本日、第一陣のツバメを確認。
暖冬だからもう少し早いかなと思ったが、結局例年並
の到着であった。
しかし、到着したからといって、直ぐに巣作りをする
わけではない。
その前にペア作りをしなければならないのだ。
何回かの協議らしきものを経て、ペアも決まり、ロケ
ハン(こちらの方が前かもしれない)もして、最終的
にここで良いということになったら初めて巣を作り出
す。
現実的には、前年残された巣を修復するのが多い。
ここが問題なのだが、前年の巣を使うのは、そこから
巣立ちしたツバメなのか、ということなのだ。
何匹か同じところから巣立ちしている。
そのツバメの中で、相続争いというものは起こらない
のか、単に早い者勝ちなのか、つまり、その巣の所有
権はどうなっているのかと、疑問は尽きない。

そんな観察者の思惑とは関係なく、ツバメは活発に活
動するのだが、これだけはその度に感心するのだが、
多分、東南アジア辺りだと思うが、何千キロの長旅を
こなしてきていると言う事実は、凄いの一言だ。
生存率というのはどうなってるんだろうか。
増えもせず減りもせずなら、大体5羽巣立つから5分
の2、4割位か。

まあ、そんなことはどうでもよく、今年も無事に巣作
りしてちょ、ということだけなのだ、こちらの望むこ
とは。
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