ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

一月の雨

2008年01月12日 | Weblog


一月の雨。
これも温暖化ということなのだろうが、最近ではそれ
ほど違和感がなくなってきた。
以前だと、この時期の雨は、異様に暖かいという感覚
を伴ったが、すでに日常的なものになりつつある。
暖かい方がむしろ嬉しかったりするのは、単に年のせ
いで、寒さに弱くなったからに過ぎないが、単純に喜
んでもいられない気象の変化である。
ただ、腰痛にとっては、寒さは大敵だと思うから暖か
い方が喜ばしい。

その腰痛であるが徐々に軽減されている、と思う。
困るのは、ある体勢から次の体勢にスムーズに移行で
きないことだ。
支点としての腰が決まらないのは、なかなか不都合だ。
世の中、腰痛に悩まされている人は多いと思うが、直
立歩行の宿命と思って諦めるしかないない、というこ
となのか。
それでこの腰痛、いつから始まったのかを考えてみた。
思い当たるのはテニスだ。
テニスをやり始めたころであることは、多分間違いな
い。
それまでは、腰痛によって上手く歩けないなどという
ことはなかったのだから。
テニスを始め、腰を酷使したのが一番の原因であるこ
とに最早疑いの余地は無い。
そう言えば当時、定期的に何度も腰痛が襲ってきたも
のだ。
暫く休むと直り、また暫くすると襲ってくるの繰り返
しだった。
完全に止めてからは、もう重い腰痛が襲ってくること
は無かった。
しかし、この手のものは、なかなか完治はしないという
ものなのだろう。
いうなれば、何年殺しの爆弾みたいなものだ。
忘れた頃に爆発。

「更級」の主人は、子供のころに高いところから飛び
降りたことが原因による神経痛に、最近悩まされてい
るという。
これなど、60年殺しの世界だ。
となると個人的に更に心配になるのは、膝だ。
どちらも、バイクの事故でそれぞれ一回やられている。
右足は、車相手の事故で、左足はオフロードバイクで
の単独事故だ。
どちらも、痛いことは痛かった。
充分痛かったから、あれだけで済ませてほしいもので
ある。
しかし、目覚めてほしくはないが、時限爆弾のスイッチ
はすでにその時に押されている、と思ったほうが良い
だろう。
というか、覚悟だけは決めておけということなのだろ
う。
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腰痛

2008年01月11日 | Weblog


痛くならない体勢がなかなか見つからず、結局、昨日
は良く寝られなかった。
埋葬にある屈曲体勢も(軽度の時はこれが楽なのだが)、
暫くすると腰の辺にしびれのようなものを感じ向きを
変えざる得なくなり、変えるとその都度痛みが走る。
全く腰痛というのは厄介である。
こんな時は「バンテリン」も効かないし。
部屋のでかいテレビは、否応無しに目に入ってくるし、
恨めしい視線を送るしかこちらとしては手立てが無い。
安静しかないのか、残された道は。

それにしても、テレビってこんなに大きいのが必要な
のか。
そんなに皆、迫力ある大画面を望んでいるのか。
個人的には、20インチ前後で充分だが。
14インチでも別に問題ない。
基本的に、大きな画面で見るべきものがあるとは思わ
ないのだが、例えばスポーツ中継などは、大きいほど
良い、ということになってるらしい。
しかも、ハイビジョンなら更に良い、ということらし
い。
きれいな画像であることは認めるが、そうでなければ
とは思わない。
それより、部屋が大して広くも無いところに大きなテ
レビというアンバランスを感じないのだろうか。
空間にあわせた適正な大きさというものがあるだろう
に。

液晶の薄型だったらここまで思わないのでは、という
のは確かにあるが(何しろ今は私怨を抱いているから)、
適正の大きさというのは、薄型であろうがブラウン管
であろうが関係ない。
例えば、スポーツ中継以外の映画なども、大きければ
大きいほど良い、ということになっている。
遊園地の、体感型のあれ(名前を忘れた)のような感
覚を味わいたいのなら、確かに有効なのかとも思うが、
映画の場合、スクリーンとの違いはその質感なので、
テレビでは限界がある。
それに、そこまでする必要もない。
いい映画は、パソコンで見ようが、液晶で見ようが、
スクリーンで見ようが、同じように良いのである。

と、ここまでは個人的な好みの問題なのだが、テレビ
の大きさで本当に問題なのは、この大きいものがそっ
くり大きなゴミになるという事実ではないだろうか。
これは、現実的な話だ。
山の中に捨てられる不法投棄は、残念ながらなくなる
気配は無い。
テレビやら洗濯機がごろごろしている風景は、興ざめ
もいいところだ。
大きければ大きいほど、その処理は大変になる。
これは処分場でも同じであろう。
メーカーも少しは考えろという話なのだが、主導権は
消費者なのだから、結局は消費者一人一人が考えろと
いうことになるのだ。
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重いテレビ

2008年01月10日 | Weblog


カフェのT君が、テレビ要らないですかと言う。
どうやら、以前、不要になったテレビを貰ったらしく、
それがそのままの状態になっているらしいのだ。
要するに、以前の持ち主が処分をT君に押し付けたと
いうことなのだ。
今は、処分代がかかるので、このようなパターンで、
使わない電化製品が、各家に眠っている時代だ。
その話を聞き、そういえば、家のテレビが映らない状
態で、処分を待っているのを思い出した。
何故、処分を待っている状態が続いているかというと、
重いからだ。
ブラウン管の変に大きい型のテレビは、非常識に重い。
一人で持つのは危険だ。
だから、処分場に持っていくのも一苦労となる。
しかも、まずいことにそれは二階にある。

T君の話を聞き、それじゃあ壊れたテレビとそれを交
換して、壊れたのはお金を出すからT君に処分場に持っ
ていって貰おうか、ということで話はついた。
早速、軽トラックでそのテレビをT君は持ってきた。
見ると、家にあるのと同じ大きさのようだ。
改めて、でかい。
何ゆえ、あれほどの奥行きがあるのか、と腹立たしく
さえある。
二人で、そのテレビを二階に上げるべく、抱える。
やはり、重い。
持ちにくさが、重さを倍加している。
そして、玄関から家に上げようとしたとき事故はおき
た。
グギッ、と腰の辺りが。
このところ、ただでさえ腰の調子が良くないとき、こ
のテレビはあまりに危険だった。

こうなると、階段が上がるかどうか。
それより、力が入らない。
前後を交代して、T君に前を担当してもらう。
階段の狭さが恨めしい。
踊り場に辿り着くのに、一苦労。
最後の力を振り絞って、というより、殆どT君に引っ
張ってもらい、どうにか二階に辿り着いた。
前日に、壊れたテレビは一人で台からおろしてあった
ので、そこへ新しいのを乗せるだけだったのだが、も
うその力はなくなっていた。
かくして、古いテレビを運ぶ余力も無く、部屋の畳に
でかいテレビが二台鎮座した状態になっている。
完全に、テレビの倉庫と化したこの部屋が、果たして
いつまともな状態になるのだろうか。
雪解けを聞く頃かな。
それより、腰の状態が。




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映画の見方

2008年01月08日 | 映画


ネット上で、映画のDVDソフトなどを検索すると、必ず
ほしいものが出てくる。
始めは、単にどんなものが発売されているかという興
味なのだが、途中からそれが何を買うかというシミュレー
ションに変わるから、困ったものである。
今回はHMV上での探索であったが、ここは、複数買うと
割引という戦略をとっているから、シミュレーション上
も当然複数枚ということになる。
それにしても、まだまだ高い。
DVDプレイヤーも無く、パソコン上で見ている身からす
ると、ソフトとプレイヤーが同じような値段というこ
とが納得できない。
尤も、再生のみの聞いたことが無いようなメーカーのプ
レイヤーと比較しての話だが。
いずれ、値段も下がるだろうし、今買わなくてはなら
ない理由も無いのだが。

今回引っかかったというか、興味を持ったDVDは、まず、
このところの常連ジャ.ジャンクーの「世界」。
これは、発売されているDVDの最後の一枚。
基本的に、興味のある監督の作品は、一通り見たくなる
し見たい。
なんと言っても、映画は監督だから。
そして他は何が良いかと見てみると、同じ画面上にロベー
ル.ブレッソンの「ラルジャン」があった。
あまりにストライクな。
これじゃあ、アマゾンのお勧めページと同じだ。
ピンポイント攻撃。
「ラルジャン」は、ビデオで録画したものを持っているが、
画質が悪くどうしたものかと思っていた。
しかも、ブレッソンの中でも好きなもの上位。
食指がずずっと伸びる。
暫し思案橋に佇む。

改めて、ブレッソンで、他に何かあるかと探索してみ
ると、今度は、三枚組みのセットがみつかった。
内容は「ジャンヌダルク、裁判」と、他未見の二枚の
組み合わせだ。
となると、こちらの方が見てないものがある分価値が
ある。
いや、必ずしもそうでもないか。
DVDのコレクションをするならば、端から集めるとい
うことになるだろうが、目的はそういうことではない。
こちらが求めるのは、飽くまでも見るための耐久性だ。
つまり、何度見ても劣化しないということが大事なの
だ(内容にも当てはまる)。
いつでも見られる、これがポイント。

よく「ネタバレ」といって、筋をばらされると面白さ
半減という映画があるが(多くがそう)、そういう映
画は元々その程度の映画で、個人的には興味は無い。
個人的に思ういい映画の条件というのは、見るごとに
新しい発見がある、ということなのだ。
そういう条件は、結局監督のセンスの中に見出すもの
なので、先述の「映画は監督」ということがほとんど
全てということになる。
で、ブレッソンはどうなったかというと、未だシミュレ
ーションのまま浮上せず、である。
その前に、プレイヤーをどうにかしろということかも
しれない。
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マイケル.ブレッカー

2008年01月07日 | 音楽


スノッブなM氏が、お年賀代わりにと「マイケル.ブレッ
カー」の最後のアルバムのCDを持ってきた。
と言っても、こちらはその辺のことにあまり詳しくは
ないので、メンバーを見ながら「有名どころが揃って
るね」と言うくらいだ。
「パット.メセニー」「ハービー.ハンコック」「ブラッド.
メルドー」「ジャック.ディジョネット」と確かにオール
スターキャストという感じである。
それより、「マイケル.ブレッカー」って死んだんだ
という事実を再確認したことのほうが驚きだ。
そう言えばそうだった。
フュージョン系は、「マイルス」「ウェザーリポート」
ぐらいしか聴いてなかったから。
他は、正直あまり関心がなかったのだ。
これも、M氏から貰わなければ、まず聴くこともない。

というわけで、マイルスの「ビッチェズブリュー」を
たまたま聴いた後に、この「マイケル.ブレッカー」
をかけることにした。
それでふと、「ビッチェズブリュー」のドラムスを確
認すると「ジャック.ディジョネット」であった。
まだ一線で活躍しているんだ。
凄いね、と全然関係ないところで感心してしまった。
ジャズ系は息が長いのか。
ジャズプレイヤーにとっては演奏そのものが生活である、
という感じは強いから、ロックと違って体力の衰えと
ともに一気にエネルギーがなくなるということも無さ
そうだ。
生活のリズムに合わせたプレイ。

実際聴いてみると、マイルスがやっていたのとは違い、
大分肩の力が抜けている演奏である。
その点を枯れた演奏或いは名人芸と取るか、刺激がな
く面白くないと取るか人それぞれである。
個人的には、やはりまだマイルスである。
まだまだ枯れた境地にはいけそうにない。
いつになったらそうなるのだろう。
一生無理かも分からない。
「パット.メセニー」だって「スティーヴ.ライヒ」
もののほうが好きだし、こればっかりはどうも。
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ほろほろ鳥

2008年01月06日 | 食べ物


暮れに「ほろほろ鳥」のコンフィなどを食べようと計
画していたが、結局、作る暇というか気力がなく作ら
ずじまいとなった。
その代わりに、以前作った「子牛のコンフィ」が冷凍
保存してあったのでそれで間に合わせた。
しかし、見栄えが今ひとつなので、華が足りなかった。
暮れにわざわざ使う、というには力量不足か。
そう言えば、「子牛のコンフィ」は「カスレ」に使う予
定だったのだ。
こちらの方も、計画通り進んでいなかったということ
になる。
そんなことばかりのここ最近、だ。

それにしても、以前だったら「ほろほろ鳥」などを入
手しようなどとは夢にも思わなかった。
大体、どこに行けば買えるのか、見当も付かなかった。
これは、田舎であろうが東京であろうが同じだ。
少なくとも10年前まではそんな状況だった。
それが今は、注文して二三日で届くのだから。
本当、便利になったものだ。
それに伴い、食生活が豊かになっているのかどうかは
不明だが、少なくとも、専門的な料理を自分で作る機
会は圧倒的に増えた。
これに関しては、周りに食べさせる店がないという田
舎の環境がそうさせたということであろうが。

そんな食材も、昔だったら気にもしなかった添加物が、
いやに気になる。
例えば肉類は、原産地だけで、基本的には余計な添加
物は使ってないので問題ないが(飼料に使っているか
は判らないが)、ハムとかの加工品は必ず確認するよ
うになってしまった。
入ってたら食べないというわけではないが、味調整し
てあるそれらは、大体が不自然な味で美味いとは思え
ない。
いうなれば「コンビニ味」なのだ。
画一的な味。
例えば、生ハムなどにそれが使ってあるとがっくりで
ある。
「ハモンイベリコ」でもそういうのがあった。
というより多くはそんなものかもしれない。
昔ながらの本物が、必ずしも受け入れられないという
現実があるので、全体の流れはむしろコンビニ主導な
のである、多分。
今や、コンビニがスタンダードなのだ。

テレビなので、コンビニの食べ物開発のドキュメント
などをやることがある。
苦労してヒット商品を作るという姿が感動を呼ぶ、と
いう製作側の意図もはっきりしていて、その通りに受
け入れる人もいるのだろうが、どうしても違和感を感
じる。
むしろ、味覚の劣化を助長している張本人、としかこ
ちらとしては感じられないのだ。
「ヒット商品イコール良いもの」という図式は、個人
的には全く持ちえていない。
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パリ.ダカ

2008年01月05日 | Weblog


フランクフルトの高原は、浦和移籍が決定したようだ。
フランクフルトにいて試合に出ないよりは、浦和で常
時活躍した方がこれからを考えると、つまり、WCに向
けて調整がしやすい環境を選んだという点で、賢明な
判断をしたということだろう。
年齢的にも、最後のチャンスになるかもしれないし、
前回の消化不良的WCの挽回をするためにも、浦和とい
う判断は納得である。
この先フランクフルト或いはドイツで、更なる飛躍と
いうほどの余裕はないということだ。
去年のレベルが保たれれば、何の問題もない。

そして、「パリダカール」は中止が決定。
モーリタニアの治安悪化がその理由。
それにしても、アフリカという国は、内戦がすっかり
常態化してしまった。
どこかが収まると、必ず次のどこかが内戦状態となる。
全く資源がなければ、ここまでひどいことにならない
だろうが、貧困問題はどちらにしろ付いて回るから、
直ぐ解決できる訳ではないが、内戦よりは良いだろう。
大国の思惑が、武器供与に繋がっている今の状況は、
多分、変わりようがないのではないか。
内戦の常態化の一番の原因はそこになると思うが、国
益という言葉を出されると、何故か納得してしまうか
ら困ったものである。
基本的には、国、国民は利己的ということなのだろう。

「パリダカ」から見るアフリカの情勢、のような内容
になってしまったが、書いてる本人だってそれほど心
配しているわけでもなく、他人事として気楽に書き放
しているに過ぎない。
飽くまでも他人事なのである。
ただ、「国境なき医師団」にほんの少し寄付している
と、活動報告などが定期的に送られてきて、特にアフ
リカのひどい状況がそこに書かれている。
最近は「スーダン」のダルフールの惨状報告が多い。
そういうのを目にすると、否応無しに、その時だけか
もしれないが、現地の状況のひどさが気になるのだ。
アフリカより自分のことを考えた方がいい、とは思う
のだが。
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マイルストーン

2008年01月04日 | 音楽


世の中で貸すと帰ってこないものの代表と言えば、本、
レコード、今ならCDと言ったところだろう。
もう一つ忘れていた。
ビデオもそうだ。
これらは、貸した方は覚えているが、借りた方が大体
忘れているといった状態になる。
貸した方は貸した方で、ビデオの一つや二つ、或いはCD
の一つや二つ請求するのもなんだかみみっちいような
気がしてなかなか請求できない。
関係からすると、何故か貸した方が立場が弱くなると
言う不思議。
これも一つの不条理というやつか。

そんなことを言っているが、こちらもビデオの借りっ
ぱなしのものがある。
まあ一応理由としては、まだ見てないからというもの
があるが、借りてから一年以上経っているのにその理
由もないであろう。
気持ち的には、「まあいいか」だからこんなことになっ
ている。
因みに、その一部をこの正月に見た。
それは、森一生監督、三船十郎主演「荒木又右衛門、
決闘鍵屋の辻」1952年と増村保造監督、宇津井健
主演「黒の報告書」1963年という、年季の入った
コレクターならではの作品だ。
どちらもなかなか見ごたえがある。

話を戻して、向こうも、膨大なコレクションの一部だ
から忘れてるんじゃなかろうか、という気持ちという
か希望的観測があることは、事実である。
しかし、これはこちらの勝手な理屈であるし、コレクター
の心理を分かってない。
コレクターだからこそ、膨大な数のビデオ全てを把握
していると見るべきなのだ。
だから、絶対に忘れていないと思う。
今年はなんとか返したいものである(また他人事のよ
うな)。

で「マイルストーン」だが、マイルス.デイヴィスの
アルバムタイトルで、実は、そのCDを貸していたの
だ。
貸してから半年以上経つか。
それでこの前、本人に会ったとき、はっきりと「聴き
たいから返して」と言ったのだ。
それで言われた本人も「ああそうだった」ということ
になり早速持ってきたのだった。
結局、この手のものは、本当に返してほしいのだった
らきっかけを与えないと駄目なのだ(借りてるくせに
ここは強気に)。
ということで久しぶりに「マイルストーン」を聴いて
いる。
「Get up with it」も良いけど、たまには「Milestone」
も良い。
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正月駅伝

2008年01月03日 | Weblog


二日ばかりだらっとしていると、もう何ヶ月もそんな
状態でいるかのような気分になる。
ずっとその状態が続いたら、さぞかし楽であろうと思
う反面、脳も身体も溶けるのではないかとも思う。
そんなことを、「大学駅伝」を見ていると感じてしま
うのだが、好きで見ているわけではないのに見ている
という状態が良くないのだろう。
ろくな番組がないと言いつつ、テレビを見ているとい
う皮肉。
これが今や日本の正月の正しい姿という気さえする。
困ったものである。

一日は、映画を見て過ごしたので、テレビを見ずにす
んだので、気分的には晴れやかだったが、結局「大学
駅伝」か。
全く、能がない。
しかも見だすと、期待するのは「ドラマ」。
多くの人が期待しているのがそのドラマであること
は分かっている。
つまり、途中で走れなくなるランナーを見たいのだ。
最終地点に行けない仲間の落胆、そしてその原因を作っ
た棄権するランナーの悲劇の物語り。
考えてみれば、あざとい設定だ。
大袈裟な実況中継も、全てはその為の演出なのだ。
と、言いたくもなる全体の作り方であるが、記録更新
よりそっちの悲劇の方が好きなのは事実ではないか。
そして、そのドラマは翌年に続き、リベンジのドラマ
として再び復活する。
ここで一応カタルシス。

と、新年からどうにもひねくれた物の見方である。
もう少し、素直に見られないものか。
この辺はどうにも性格的なもので、なかなか改善され
る気配がない。
まるで他人事のような書き方をしていること自体が、
そもそもそういう気がないという証拠である。
この点は、反省すべきか。
いつも、同じようなことばかり言っていても進歩はな
いし、少しは考えた方がいいかもしれない。
ということで、今年はその点に気を付けたい。
今年の抱負?
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初ブログ

2008年01月02日 | Weblog


今年初のブログである、と言っても一日置いただけの
ことで、何か特別なものであるはずもないのだが、不
思議なもので「初ブログ」という言葉をつけると何か
普段とは違う気分になるから、言葉というのはやはり
魔力を持っている、ということでもなく、一番の理由
は、正月がはさむと普段のリズムと変わるので、それ
が精神的モードに何らかの影響を与えて、気分一新と
いう一時の錯覚を覚えるのかとも思う。
と、どうでも良いようなことを考えながら、時は進ん
で2009年がすでに始まっているのである。

31日は、たまにはワインということで、「シャトー.
モンローズ」というボルドーの1987年物を開けた。
と聞くと、一端のワイン通のように聞こえるが、多分
この事実だけ見れば、そこそこの少なくともある程度
ワインを知った人間であると感じられても不思議では
ない。
実際、このワインはずっと保管しているのもので、こ
こ最近買ったというものではないので、この事実だけ
でも個人的ワインストックがあることを表わしている。
が、しかしだ。
確かに、ストックはあるが、全て過去のある時期に買っ
たもので、飲んでいたのもその僅かな期間の出来事で、
それっきりの話なのだ。
今回の「シャトー.モンローズ」も、たまたま残ってい
たものを開けただけのことなのである。

すっかり遠ざかってしまっていて、ワインの味も今ひ
とつはっきりしなくなり、美味しいのか美味しくない
のか判然としない、なんて状態になるのではないかと
いう危惧を持つかもしれないが、実際そうなる。
20年前のボルドーだったら、論理的には飲み頃であ
ろうことは分かるが、これが本来の味なのかどうかは
全く判別できない。
しかし、充分にボディーがあることは分かる。
ボディーなどという用語を使うところが、ちょっと通
的ないやらしさだ。
どうも、良くない。
「こく」だね、要するに。
そして何より、冷えすぎていて、まだ開花していない。
この表現も、ちょっとか。
香りが、出きってないのだ。
というこで、グラスに注いで暫く放置という手段をと
り、結局いかにもワインにうるさいという世界そのま
まを演じることになってしまったのだが、ワインの味
というのは、そんな微妙な要素で構成されているので
しょうがないのかもしれない、こうなるのも。
だから、多くの人を惹きつけるのだろう。
最早、ワイン=うるさい人間というのは一つの公式だ。

まあ、そんな感じの久しぶりのワインであったが、他
にマニアがいるわけでもないので、なかなか美味しい
ということで何事もなく飲み終わった。
テレビは、特番だけで、大して見たくもないがとりあ
えず見て、最後にちょっと「紅白」を見たら、ちょうど
スマップかなんかで、相変わらずのわざとらしい世界
に腹立たしさを覚え、やはり紅白は見るべきものでは
ないなと確信し、「行く年来る年」のこれはdeja vu
かと思われるようなどこかのお寺の風景を見て、こう
いうのは暮れの風物詩としてはありだな、と思い、そ
のご眠くなり寝たといういつものパターンの31日で
あった。
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