
レギュラシオン理論 経済学の再生, 山田鋭夫, 講談社現代新書 1146, 1993年
・普段まったく興味の無い経済学分野の本ですが、なにやら怪しげで新しそうな、そして何かをやってくれそうな『レギュラシオン理論』の語感にひかれて手にとった本です。
・私のような門外漢でも途中で投げ出すことなく最後まで読めましたが、その理解の程は?? 経済学の下地がないので、その "新しさ" や "凄さ" について、他の理論との相違点がピンときませんでした。
・この理論、現在は耳にすることがありませんが、廃れてしまったのでしょうか。
・「問題は、経済の「変化」をどう説明するかである。しかもその変化を、個々的にでなく総体的に、そして歴史的にでなく理論的に、だがしかし、いわゆる純理論的にでなく歴史に開かれた理論として――そういうものとして「歴史論理的」にとらえてみたいというのが、私の長年の願いであった。静態的な経済学でなく、いわば「可変性の経済学」を探しもとめていたのである。加えてその経済学は、理論のための理論でなく、われわれふつうの市民が使える道具として役立ってくれるものでなければ意味がないのである。 そんな私にひとつの大きな啓示をあたえてくれたのが、レギュラシオン理論であった。」p.11
・「いかめしい経済理論もその奥の奥を洗っていくと、ごく単純な進行に行きつくのである。だから、それさえ押さえておけば、経済学はむずかしくない。そしてその信仰とは、ほかでもない資本主義なり市場経済なりを大きくどう見るかという一点にかかっているのである。 そこでまず、今日よく知られている代表的な三つの経済学を例にとって、その資本主義観や市場観のちがいを深いところで見ておこう。新古典派、ケインズ派、マルクス派の三つを取りあげる。」p.20
・「スミスもマルクスも近代資本主義のうちに、ポジティヴな要素(生産力)とネガティヴな要素(搾取)という両面を見ているのである。(中略)スミスは、ネガにもかかわらずポジが発展する、それはどうしてかと問い、マルクスは、ポジがネガをともなう形でしかありえない、それはなぜかを問う。」p.38
・「システム理論や生物学では、その構成諸部分が相互に整合的でないようなシステムの動態的調節のことを「レギュラシオン」と言うそうだが、かれ(G・デスタンヌ=ド=ベルニス)はその概念を資本主義経済を読むために活用した。資本主義は矛盾をかかえているが、それを整合的に解決するためにどのような調整を必要としているかを問うたわけである。」p.52
・「だから、立てるべき根本的な問いは、これほどに矛盾している資本主義がそれでもある程度安定し、再生産が進行していくのはなぜなのかである。」p.54
・「私たちのまわりにある資本主義をよりよく見るためには、概念という道具をつくり、それを動員する以外に手はないのである。 概念を設定し組み立ててモノを見るということは、何もレギュラシオン理論にかぎらず、全ての経済学に、いやすべての学問に共通したことである。」p.74
・「図表2を見ていただきたい。これがレギュラシオン理論の全ての概念だ。大きくは「制度諸形態」「蓄積体制」「調性様式」「発展様式」「危機」という、たった五つの概念をもとにして資本主義をとらえようというわけである。」p.76
・「「レギュラシオン」を「調整」と訳してきたが、注意していただきたいのは、これは英語の「レギュレーション」とは意味を異にするということだ。レギュレーションは日本語では「規制」と訳されているように、政府による上からのコントロールをいう。法律、条例、許認可、行政指導、制裁措置、財政措置(課税や補助金)などがイメージされよう。それに対してレギュラシオンは、対立する諸力・諸過程の間の――いわば対等な――相互作用の結果として、全体の平衡や安定がえられることをいう。例えば人体が体温を一定にたもつのは、体内諸組織の相互作用によるレギュラシオンの産物なのである。」p.86
・「やがて見るようにレギュラシオン学派の戦後資本主義論は、この大量生産―大量消費という点を軸にして展開されるので、戦後をあえてフォーディズムとよぶわけである。」p.112
・「テーラー主義は構想と実行の分離(労働者からの熟練・判断力・自立性の剥奪)、実行作業の細分化と単純化(単調な反復的労働の強制)、組織のヒエラルキー的編成(命令にもとづく労働統制)によって、高い生産性を実現したのであった。フォーディズムのもとでの労働編成は「テーラー主義プラス機械化」(A・リピエッツ『勇気ある選択』)ともいわれるように、このテーラー主義を基本としていた。」p.122
・「つまり最深部に労働編成の危機(テーラー主義の危機)が宿っており、その上に労使妥協の危機(ゲームのルールの危機)が折り重なっているのである。それがレギュラシオン学派の解読するフォーディズムの構造的危機であり、今日の20世紀末不況である。」p.130
・「しかし、フォーディズムにかわる新しい蓄積体制、新しい調整様式、したがって新しい発展様式は、いまだ霧に包まれているのだろうか、くっきりとした姿を現していない。それが今日の世界である。」p.134
・「別の読みかたをすれば、日本の労働市場は、ボルボイズム型に近いエリート層とネオ・フォーディズム型に近い非エリート層に分断されており、そうした二重社会的状況の合成結果として、総体としての日本は、結局はボルボイズムとネオ・フォーディズムの中間方向に進んでいる、ともいえる。 こうしたトヨティズム的プログラムは、脱テーラー主義→生産性→利潤 と要約できようか。」p.146
・「大量生産―大量消費の体制は同時に大量廃棄の体制でもあったということが、反省されねばならない。だから、将来的妥協において労働者が受け取るべき対価は――少なくとも先進諸国の労働者にとっては――賃金と消費の拡大ではないであろう。おそらく、何をいかにつくるべきか――つくらないべきか――という経営的意思決定への参加と、自由時間の拡充とが対価となるべきであろう。」p.170
・あとがきより「むしろ、専門家相手なら説明せずに通用してしまうという「馴れあい」を排することの必要を、つくづくと感じさせられた。 そうした馴れあいを排しうるためには、じつは書き手自身の側での認識が深まっていなければならない。深く認識してこそ平明に表現しうるし、平明に表現しえてこそ認識も深まるものだということを知らされた。自らが本当に理解したことは意外とふつうのことばで書けるものだ、逆に自分の理解が行きとどかない所ほど難解になるものだ、ということである。」p.190