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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【鑑】紀尾井シンフォニエッタ東京 北海道公演

2008年08月01日 22時00分53秒 | 鑑賞記録
近代製鉄発祥150周年記念事業、室蘭製鐵所創業100周年記念
紀尾井シンフォニエッタ東京 北海道公演
2008.6.22(日)14:00開演, 室蘭市文化センター, 入場料4000円(ひ列30番)
指揮 尾高忠明、ヴァイオリン ラファエル・オレグ

エルガー 序奏とアレグロ Op.47
メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64
ベートーヴェン 交響曲 第7番 イ長調 Op.92
アンコール モーツァルト ディベルティメント第1番 K.136 より第3楽章

・室蘭という土地柄、札響以外のオーケストラがやってきて演奏会を開くというのはなかなか無い機会です。そんな訳で非常に興味はあったのですが、日曜日なので突然どんな予定が入るか分からないことと、チケットの価格から行くのを迷っていました。「あ~あ、チケットが空から降ってこないかなぁ~」そんな虫のいいことを考えていたら、演奏会の二日前に大学の後輩から着信アリ。「チケットがタダで二枚手に入ったんですけど、一緒にいかがですか?」 持つべきものは後輩だ。これは「聴きに行け」という神様の思し召しに違いない、ということでありがたくチケットをいただき、聴きに行ってました。ふと【鑑賞記録】を読み返すと、有料演奏会のタダ率が異様に高い。
・当日は、チケットを持つ後輩より「会場に着くのはギリギリになりそうです」との話を聞いており、今か今かと会場入口で待っていましたが、現れたのは本当にギリギリで、1ベルの音と共に会場に滑り込みました。
・今回の演奏会は新日鐵の記念行事の意味もあり、まずは代表者の挨拶から。
・オケの編成は、弦がVn1-8,Vn2-6,Va-6,Vc-4,CB-2[人]+管打、と小規模で、若いメンバーが目立ちます。配置は木管が正面2段で、Hrn-下手、Tp・Tim-上手の形。
●エルガー
・初めて耳にする曲。冒頭、奏者全員が弓を持つ右手を大きく振りかぶったかと思うと、衝撃的な重音の響きが! これはインパクトが強く、演奏会の最初に聴衆を引き込む効果大。ただ、響きのキレイさとしてはベストな響きではなかったように思います。本来ならもうちょっとキレイな響きなのではないでしょうか。
・イスの配置が、弦四部の最前列が各一つずつという変わった配置。曲が始まってみるとこれが何故だか分かりました。曲の構成が、各パートトップによるカルテット+弦楽合奏の形によるもの。各パートソロの演奏はいずれもスゴかった。ただならぬ音がしていました。
・初めて聴くはずなのに、どこか馴染みのあるメロディー。どこで聴いたっけ。。。そこで思い当たったのですが、この既視感はエルガーの弦楽セレナーデと雰囲気が似ているせいのようです。見ていて、聴いていて、面白い曲なのでもっと広く知られていい曲だと思います。今演奏会のベスト演奏。
●メンコン
・冒頭はゆったりとした出だし。ソリストは出だしの楽譜1ページくらいの間は、ちょいちょい独特な歌い方をして、「おっ!?」と思わせましたが、それ以降は至極まっとうな演奏でした。引き締まったやや硬質な音質。スマートな演奏スタイルである反面、線の細さも多少感じられます。
1楽章:昨年工大オケでも苦労した、強奏(ff)のアウフタクト合わせ部分を尾高氏はどう振るのか注目していましたが、「フンッ!!」と会場の最後列まで聞こえるほどの鼻息で、気合で合わせていました。ゆったり開始し、徐々に巻いていき、駆け込んで終了。
2楽章:出だしはハッキリクッキリ、ちょこまかと6つ振り。
3楽章:いい気持ちになり、寝そうに。
・この曲に関しては、オケは完全に伴奏モード。全体を通して木管の音がよく通っていました。ほぼ最後列の客席でも、すぐ目の前で吹いているかのような感覚。
●ベト7
・少人数での演奏でありながら、ステージ上のイス配置はこれでもかというほど中央に寄せ集め、キツキツのセッティング。
1楽章:注目の第1音。悲しいほど響かない。もっと良い響きのホールだったら。。。コンマスは、お尻が椅子から浮きそうになるほどの熱演。
2楽章:冒頭、すばらしくキレイでした。ビオラのメロディー部分は、6人で弾いた音ではなく、完全に一本の楽器の音に。本当にビッタリ合った時の音というものは、何とも言えないまろやかさとふくよかさが感じられます。
3・4楽章:半分意識を失っていました。それでも、音を割る一歩手前のホルンの熱演が印象に残りました。
・全体を通して、このような小編成のオケにおける管と弦との音量バランスの難しさについて考えさせられました。通常編成のオケであれば、管楽器は誰も気づかぬうちにそっと音を滑り込ませることが可能ですが、この編成だとどんなに弱音でも、音のON/OFFがはっきりくっきり聴こえてしまいます。聴く側の "慣れ" もあるでしょうが、その辺の音の処理を他の団体ではどうしているのか、気になるところです。
●K.136
・突如として、ハッ!? とさせられる弦楽器の音色の美しさ。水を得た魚のような。指揮は始終1つ振り。
・この前日に、ソリストを含めた演奏メンバーによるオケの講習会がありました。室蘭市民オケからも数名参加。私も出ておけばよかったかな。
・帰り際に、着替えを終えてバスに乗り込む尾高氏を目撃。すっごく若々しい格好でびっくり。
・客数約1000名[目測]:客席後列がアーチ状に空席があり、約7割の入り。高めのチケット価格にしてはよく入った方だと思います。新日鉄関連で相当ばら撒いたせいもあるのかもしれませんが。客席では、九州に行っていたはずの工大オケの同期に再会してびっくりするやら懐かしいやら。また、帰り際には、周辺の音楽会では必ずといっていいほど顔を合わせるK氏にとっつかまる。「いや~、こないだ(4月)の洞爺湖の札響の演奏会どう思った??」 話が長くなりそうなので、適当に切り上げて家路へ。
コメント (2)
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【本】死後の世界

2008年08月01日 08時03分09秒 | 読書記録2008
死後の世界, 渡部照宏, 岩波新書(青版)351(C152), 1959年
・本書の内容については下記のカバーの紹介文にお任せ。書名からはおどろおどろしい内容を想像してしまいますが、実際はきわめて学術的な重い記述に終始しています。
・「あの世なんて信じない。死んだら土に帰るだけ」とは思っても、いざ自分や近親者の死体を "生ゴミとして処分" となると、おそらく抵抗を感じてしまうのが不思議なところです。死への畏れというのはそれだけ本能に近い感情であることの顕れでしょうか。
・時代とともに移り変わってきた『死』に対する人々の考え。本書では触れられていませんが、未来にはこれがどう変わっていくのかも興味あるところです。現代の『お葬式』は「死者の死出の旅の安全を祈る」というよりは「生者の気持ちの区切りをつける」儀礼の意味合いが強いでしょう。かつては死者のものだった『死』は徐々に生者のものとして遷り変わり、その行きつく先は?
・「人間は死んだ後はどうなるのであろうか。この問題は、つねに人間の最大関心事であった。本書は、原始・古代から現代の文化的諸民族に至るまで、この問題がどう考えられ、具体的にその考え方がどう表現されてきたかを考察する。さらに、来世観や、霊魂と肉体との関係、また私たちの心がまえとして死をどうみるべきかを語る。」カバー
・「死なねばならないというのがわれわれの生存の特色である。死ぬために生きているという逆説も一面の真理である。」p.i
・「人間が死んだあとはどうなるか。この問題はきわめて古く、かつまた新らしい。世界のいたるところ、あらゆる時代に、この問題が考えられないことはまずなかった。」p.1
・「大ざっぱに言って、死後の世界はまったく存在しないと断定する者はあまり多くはいないと考えられる。」p.2
・「要するに死者儀礼は第一には死者の幸福のためであるが、第二には生存者の幸福を守り、不幸を防ぐのが目的である。」p.18
・「たとえばカムチャツカ半島南部に住むカムチャダル族は死人を犬に食わせるが、それは未来の生涯において犬ゾリに乗っていっしょに走ることを希望するからである。」p.19
・「時代、土地、民族、社会、宗教などの差異によって死者儀礼もさまざまではあるが、表面上の差異から一歩進めて本質を考察すると、差異は予想外に少なく、むしろ人類全体に共通する考え方の方が強いことがわかる。このことはまた最近数十年間における世界の有力な宗教学者、民族学者たちのほぼ一致した結論でもある。」p.34
・「これに対して死者をまじえず近親者だけが死者といっしょに夜をすごし、夫が死ねば妻、妻が死ねば夫、親が死ねば子が一晩死体と一つふとんでねるヨトギ、ソイネ等という風習が兵庫、鳥取、山口、長野などの一部に知られている。」p.44
・「死者の財産には手をつけないというのが古くかつ普遍的な考えであろう。このように考えれば、死者の全財産をふくめて住居を放棄することも、副葬品の豊富なことも、理解できるであろう。  しかし文明が進み、生活が複雑になると、文字どおりに全財産を破棄することは事実上不可能である。そこでいろいろの便法を考えて抜け道をさがすことになる。」p.67
・「人は死後どこにいるのか。死者の存在とは何であるか。一般に常識として考えられていることは、すでに生存中に、肉体の中に霊魂というものが存在し、死ぬと霊魂が遊離し、肉体が滅んだあとでも、霊魂だけは独立に存在を続けるという。」p.149
・「現世と来世とのあいだに河または海が横たわっているという信仰はきわめて広く行われている。ギリシアでも冥界の入口には河があって、生者の世界との境界になっているという考えはすでにホメロスの時代に知られていた。」p.159
・「人が死者の世界に入るさいに神によって審判され、それによって賞罰を受けるという思想は、日本でも俗説としてよく知られ、外国にもその例が多いが、実はすべての民族がはじめからこの点についてはっきりした考えを持っていたわけではない。」p.162
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