アインシュタインの世界 物理学の革命, L.インフェルト (訳)武谷三男 篠原正瑛, 講談社 ブルーバックス B-277, 1975年
・アインシュタインの共同研究者であり、前出『物理学はいかに創られたか(物理学の発展)』の共著者でもある物理学者インフェルトの、間近な視点から見たアインシュタイン像。『その業績と影響』と『アインシュタインの思い出』の二部構成で、それぞれ『Albert Einstein. Sein Werk und sein Einfluss auf unsere Welt (1953)』の全訳と『Meine Erinnerungen an Einstein (1955)』の改編版です。
・内容の密度が濃く(文字密度も濃い)、読み終わるまでに1ヶ月以上もかかってしまいました。第1部は、物理理論の内容が主なので読んでいて頭が痛くなるような多少ややこしい記述がありますが、第2部の方は思い出話が中心で気軽に読めます。
・これまで何冊も相対性理論関連書を読んできましたが、いまだに分かったような分からないような曖昧な理解です。きちんと「理解した」と言えるには、自分で式の導出をやらないとダメそう。
・「われわれの結論がめざしている目的は、生活においても、科学においてもおなじである。すなわち自然界の現象を整理し、そして予言することである。それは、われわれが感覚する世界を理解するということなのである。」p.18
・「彼は遠慮深く、善意にみち、親切な人間であった。学校の勉強はそれほどしなかったが、よく考える人間であった。彼は、ふかく感動し、そして疑問を提出するという、すぐれた才能をもっていた。彼は、いかなる人間のドグマも受けいれなかった。」p.20
・「十九世紀のはじめに死んだ有名な数学者ラグランジュは、ニュートンはあらゆる科学者のなかでもっとも偉大な人物であるばかりでなく、もっとも幸運にめぐまれた人物であろう、といっている。なぜならば、宇宙にかんする科学というものは一回しか創ることのできないものであるが、これを創ったのはニュートンだったからだ、と。」p.25
・「アインシュタインがよくわたくしに話してくれたことだが、彼は15才か16歳のときから、だれかがもしも光線に追いついたとしたらどういうことになるだろうか、という問題に頭を悩ましていたそうである。何年も何年も、彼はこの問題を考え続けていた。彼がこの問題を解いた結果、相対性理論が生まれたのである。」p.78
・「わたくしはアインシュタインに、つぎのように言ったことがある。「特殊相対性理論は、かりにあなたがおやりにならなかったとしても、――それほど遠くない将来に――だれかが完成していたと思いますね。その機が熟していたのですから。」すると、「ええ、その通りです。しかし、一般相対性理論についてはそのことは当てはまりませんよ。今日、一般相対性理論が世に知られていたかどうか、わたくしは疑問に思いますね」と、アインシュタインは応えた。」p.88
・「彼は少年時代から、光線を追いかける人と、落下するエレベーターのなかに閉じこめられた人との問題に、頭を悩ましていたそうである。光線を追いかける人という構想からは、特殊相対性理論が生まれた。落下するエレベーターのなかにいる人という構想からは、一般相対性理論が生まれた。」p.92
・「理論的に簡単ということと実践的に簡単ということとを区別して考えるならば、アインシュタインの理論は、ニュートンのかつての理論よりも理論的にはるかに簡単である。(中略)逆説的ないい方をすれば、一般相対性理論はひじょうに簡単で、前提がひじょうに少ないという、まさにこの理由によって、むずかしく思われるのである。」p.111
・「アインシュタイン自身は、自分のことを数学者と考えたことは、いまだかつてなかった。彼は、自分は哲学者であると考えていたが、それは正しかった。なぜならば、彼がとりくんでいった物理学上の問題は、文明の長い歴史のなかで思想家たちがとりくんできた哲学上の問題と深い関連をもっているからである。」p.116
・「空虚な言葉というものは、案外、寿命の長いものである!」p.118
・「有数の天文学者であるE.ハッブルは、つぎのような具体的な比較をやっている。すなわち、直径8キロメートルの大きな球のなかに15メートルの間隔でテニス・ボールが分散している状態を想像してみよ、と。この比較では、テニスのボール一個が一つの星雲に当たり、一つの星雲は数百万の星から成り立っている。そして8キロメートルという大きさは、そこまで今日われわれが進み入ることのできる宇宙の距離をあわらしている。」p.137
・「量子論の歴史は、物質と放射[輻射ともいう]とをあきらかにするために費やされた人間の努力の跡をものがたる歴史なのである――すなわち、自然、ならびに物質と放射との世界をつくりあげている素粒子の構造をあきらかにするために費やされた人間の努力の跡を、ものがたる歴史なのである。」p.156
・「量子論の誕生日は、1900年12月14日である。この日は、マックス・プランクがベルリンのドイツ物理学協会で量子論について講演をおこなった日であった。」p.171
・「われわれの住む世界を理解しようとするならば、否応なしにわれわれの仮定を絶えず改めてゆかなければならないのである。」p.182
・「一つの問題と何年も何年もとりくみ、おなじ問題をいくどでも始めからやりなおすという、このねばり強さは、アインシュタインの天才をあらわす特徴である。」p.201
・「ゾンマーフェルト教授は、たくさんの聴衆を前にしてつぎのような話をした。 「わたくしはアインシュタインを現存の最大の物理学者だと思っていますが、このアインシュタインにむかってわたくしは、『われわれの意識のそとにも、世界は実在しているでしょうか?』ときいたことがあります。すると、アインシュタインは、『ええ、そうだと思いますよ!』と答えました。」 アインシュタインは、外界の実在を考えないでは物理学は成り立たないのだ、という意見であった。」p.212
・「もう一つの理由は、アインシュタインの生命力である。彼の写真を一枚でも見たことのある人は、彼の生命力を感じるであろう。なにかの会合の席上で彼を知合った人は、たとえ彼が何者であるかということを知らなくても、彼のさわやかなユーモア、平凡な事柄でも深い意味のあるものに変えてしまう才能、そして、彼の話すことはすべて彼自身が自分の頭で考えたことである――世の中の狂躁になんらわずらわされることなく――という事実、これらすべてのことによって、魅了されてしまうだろう。彼と知りあった人は、この人は自分の頭でものを考える人だなということを感じるのである。彼は、何百万という人間に影響をあたえてきたのだが、しかし彼自身は、ほんとうの意味で、だれからも影響されない人間である。」p.225
・「また、このころ彼は、音楽の素養をもった母親の影響でバイオリンの教程をうけるようになった。このときから、バイオリンは彼の生涯の伴侶となったのである。彼は、どの音楽よりも古典の室内楽を好み。とくにバッハとモーツァルトを愛好しているが、これは、彼の性格からみてふさわしいことである。」p.232
・「おそらく、彼のほんとうの偉大さは彼の人間性にあると思う。すなわち、生涯かけて宇宙の彼方を見つめていたにもかかわらず、つねに隣人たちのために善意と思いやりとをわすれまいと努力をつづけてきたという、この簡単な事実にあると思う。」p.235
・「わたくしがアインシュタインに親しく接したのは、このときがはじめてだったが、その後16年間というもの、ふたたび親しく接する機会にはめぐまれなかった。しかし、このはじめての接触を通してわたくしは、真の偉大さというものはほんとうの人間性と表裏一体をなしているのだという、簡単な真理にふれることができたのであった。」p.244
・「アインシュタインの英語は、きわめて簡単なものであった。その語彙は、せいぜい300語ぐらいなものだったし、発音といったら、一種独特なものであった。これは、後になってからアインシュタインが話してくれたことだが、彼は実は英語の勉強というものを、したことがないそうである。」p.249ページ
・「この広間のマントルピースの上には、アインシュタインの、つぎのような言葉がかかげられている。 「神様は狡猾だが、しかし悪意はもっていない!」」p.253
・「人間の価値というものの源はなにかといえば、それは主として、思いやりであるといえよう。(中略)しかし人間の価値には、もう一つの、まったく別な源がある。それはすなわち、孤独な、くもりのない思惟からでてきた義務観念である。」p.263
・「自分だけの世界のなかに没しきって、外の世界から孤立していたアインシュタインの生き方を知らなければ、彼の性格を説明することはできない。わたくしがこのことを理解できるまでには、何ヶ月もかかった。ノーベル賞をもらったその日、アインシュタインには少しも興奮したような様子は見られなかった。」p.269
・「アインシュタインは、生活上の欲求を最小限にきりつめて、それによって自己の自由と無拘束な状態とを拡大しようとした。考えてみれば、われわれは何百万という、とるに足らない小さな事物の奴隷になっている。(中略)靴とズボンとシャツと上衣とだけは、どうしても必要なものである。これ以上省略するということは、彼にもできなかったであろう。」p.269
・「かつて、彼はわたくしにこんなことを言った。 「人生は、刺激に富んだすばらしい芝居です。しかし、かりにあと三時間で自分は死んでしまうのだとわかったとしても、わたしは別に大した感じもうけないでしょうよ。わたしは、この三時間をどうしたらもっとも有効に使うことができるだろうか、考えます。それから書類を整理して、ベッドの上に静かに横になって、死んでゆきます。」」p.272
・「彼はよく「頭のなかで考えるときに数式をもちいる科学者は、一人もいませんよ……」と言っていた。 実際、物理学者でも、計算をはじめる前にはまず、ある観念とかアイディアを頭のなかで思いうかべてみる。そして、これらの観念やアイディアはふつう、簡単な言葉で表現できるものなのである。計算や数式は、その後にでてくる操作なのである。」p.283
・「彼は、量子論は厭うべき理論だと考えていた。なぜならば彼は、われわれの実在の世界を説明してくれる真に立派な理論は、統計学的な方法をもちいるべきではない、という見解をいだいていたからである。」p.301
・「その彼がプリンストンで、たびたびこんなことをわたくしに言っている。「物理学者たちはわたしのことを、頭の古い、おばかさんだと考えていますよ。しかしわたしは、物理学はやがて今日とはちがった方向への発展をたどってゆくにちがいないと、確信しています。」」p.303
・アインシュタインの共同研究者であり、前出『物理学はいかに創られたか(物理学の発展)』の共著者でもある物理学者インフェルトの、間近な視点から見たアインシュタイン像。『その業績と影響』と『アインシュタインの思い出』の二部構成で、それぞれ『Albert Einstein. Sein Werk und sein Einfluss auf unsere Welt (1953)』の全訳と『Meine Erinnerungen an Einstein (1955)』の改編版です。
・内容の密度が濃く(文字密度も濃い)、読み終わるまでに1ヶ月以上もかかってしまいました。第1部は、物理理論の内容が主なので読んでいて頭が痛くなるような多少ややこしい記述がありますが、第2部の方は思い出話が中心で気軽に読めます。
・これまで何冊も相対性理論関連書を読んできましたが、いまだに分かったような分からないような曖昧な理解です。きちんと「理解した」と言えるには、自分で式の導出をやらないとダメそう。
・「われわれの結論がめざしている目的は、生活においても、科学においてもおなじである。すなわち自然界の現象を整理し、そして予言することである。それは、われわれが感覚する世界を理解するということなのである。」p.18
・「彼は遠慮深く、善意にみち、親切な人間であった。学校の勉強はそれほどしなかったが、よく考える人間であった。彼は、ふかく感動し、そして疑問を提出するという、すぐれた才能をもっていた。彼は、いかなる人間のドグマも受けいれなかった。」p.20
・「十九世紀のはじめに死んだ有名な数学者ラグランジュは、ニュートンはあらゆる科学者のなかでもっとも偉大な人物であるばかりでなく、もっとも幸運にめぐまれた人物であろう、といっている。なぜならば、宇宙にかんする科学というものは一回しか創ることのできないものであるが、これを創ったのはニュートンだったからだ、と。」p.25
・「アインシュタインがよくわたくしに話してくれたことだが、彼は15才か16歳のときから、だれかがもしも光線に追いついたとしたらどういうことになるだろうか、という問題に頭を悩ましていたそうである。何年も何年も、彼はこの問題を考え続けていた。彼がこの問題を解いた結果、相対性理論が生まれたのである。」p.78
・「わたくしはアインシュタインに、つぎのように言ったことがある。「特殊相対性理論は、かりにあなたがおやりにならなかったとしても、――それほど遠くない将来に――だれかが完成していたと思いますね。その機が熟していたのですから。」すると、「ええ、その通りです。しかし、一般相対性理論についてはそのことは当てはまりませんよ。今日、一般相対性理論が世に知られていたかどうか、わたくしは疑問に思いますね」と、アインシュタインは応えた。」p.88
・「彼は少年時代から、光線を追いかける人と、落下するエレベーターのなかに閉じこめられた人との問題に、頭を悩ましていたそうである。光線を追いかける人という構想からは、特殊相対性理論が生まれた。落下するエレベーターのなかにいる人という構想からは、一般相対性理論が生まれた。」p.92
・「理論的に簡単ということと実践的に簡単ということとを区別して考えるならば、アインシュタインの理論は、ニュートンのかつての理論よりも理論的にはるかに簡単である。(中略)逆説的ないい方をすれば、一般相対性理論はひじょうに簡単で、前提がひじょうに少ないという、まさにこの理由によって、むずかしく思われるのである。」p.111
・「アインシュタイン自身は、自分のことを数学者と考えたことは、いまだかつてなかった。彼は、自分は哲学者であると考えていたが、それは正しかった。なぜならば、彼がとりくんでいった物理学上の問題は、文明の長い歴史のなかで思想家たちがとりくんできた哲学上の問題と深い関連をもっているからである。」p.116
・「空虚な言葉というものは、案外、寿命の長いものである!」p.118
・「有数の天文学者であるE.ハッブルは、つぎのような具体的な比較をやっている。すなわち、直径8キロメートルの大きな球のなかに15メートルの間隔でテニス・ボールが分散している状態を想像してみよ、と。この比較では、テニスのボール一個が一つの星雲に当たり、一つの星雲は数百万の星から成り立っている。そして8キロメートルという大きさは、そこまで今日われわれが進み入ることのできる宇宙の距離をあわらしている。」p.137
・「量子論の歴史は、物質と放射[輻射ともいう]とをあきらかにするために費やされた人間の努力の跡をものがたる歴史なのである――すなわち、自然、ならびに物質と放射との世界をつくりあげている素粒子の構造をあきらかにするために費やされた人間の努力の跡を、ものがたる歴史なのである。」p.156
・「量子論の誕生日は、1900年12月14日である。この日は、マックス・プランクがベルリンのドイツ物理学協会で量子論について講演をおこなった日であった。」p.171
・「われわれの住む世界を理解しようとするならば、否応なしにわれわれの仮定を絶えず改めてゆかなければならないのである。」p.182
・「一つの問題と何年も何年もとりくみ、おなじ問題をいくどでも始めからやりなおすという、このねばり強さは、アインシュタインの天才をあらわす特徴である。」p.201
・「ゾンマーフェルト教授は、たくさんの聴衆を前にしてつぎのような話をした。 「わたくしはアインシュタインを現存の最大の物理学者だと思っていますが、このアインシュタインにむかってわたくしは、『われわれの意識のそとにも、世界は実在しているでしょうか?』ときいたことがあります。すると、アインシュタインは、『ええ、そうだと思いますよ!』と答えました。」 アインシュタインは、外界の実在を考えないでは物理学は成り立たないのだ、という意見であった。」p.212
・「もう一つの理由は、アインシュタインの生命力である。彼の写真を一枚でも見たことのある人は、彼の生命力を感じるであろう。なにかの会合の席上で彼を知合った人は、たとえ彼が何者であるかということを知らなくても、彼のさわやかなユーモア、平凡な事柄でも深い意味のあるものに変えてしまう才能、そして、彼の話すことはすべて彼自身が自分の頭で考えたことである――世の中の狂躁になんらわずらわされることなく――という事実、これらすべてのことによって、魅了されてしまうだろう。彼と知りあった人は、この人は自分の頭でものを考える人だなということを感じるのである。彼は、何百万という人間に影響をあたえてきたのだが、しかし彼自身は、ほんとうの意味で、だれからも影響されない人間である。」p.225
・「また、このころ彼は、音楽の素養をもった母親の影響でバイオリンの教程をうけるようになった。このときから、バイオリンは彼の生涯の伴侶となったのである。彼は、どの音楽よりも古典の室内楽を好み。とくにバッハとモーツァルトを愛好しているが、これは、彼の性格からみてふさわしいことである。」p.232
・「おそらく、彼のほんとうの偉大さは彼の人間性にあると思う。すなわち、生涯かけて宇宙の彼方を見つめていたにもかかわらず、つねに隣人たちのために善意と思いやりとをわすれまいと努力をつづけてきたという、この簡単な事実にあると思う。」p.235
・「わたくしがアインシュタインに親しく接したのは、このときがはじめてだったが、その後16年間というもの、ふたたび親しく接する機会にはめぐまれなかった。しかし、このはじめての接触を通してわたくしは、真の偉大さというものはほんとうの人間性と表裏一体をなしているのだという、簡単な真理にふれることができたのであった。」p.244
・「アインシュタインの英語は、きわめて簡単なものであった。その語彙は、せいぜい300語ぐらいなものだったし、発音といったら、一種独特なものであった。これは、後になってからアインシュタインが話してくれたことだが、彼は実は英語の勉強というものを、したことがないそうである。」p.249ページ
・「この広間のマントルピースの上には、アインシュタインの、つぎのような言葉がかかげられている。 「神様は狡猾だが、しかし悪意はもっていない!」」p.253
・「人間の価値というものの源はなにかといえば、それは主として、思いやりであるといえよう。(中略)しかし人間の価値には、もう一つの、まったく別な源がある。それはすなわち、孤独な、くもりのない思惟からでてきた義務観念である。」p.263
・「自分だけの世界のなかに没しきって、外の世界から孤立していたアインシュタインの生き方を知らなければ、彼の性格を説明することはできない。わたくしがこのことを理解できるまでには、何ヶ月もかかった。ノーベル賞をもらったその日、アインシュタインには少しも興奮したような様子は見られなかった。」p.269
・「アインシュタインは、生活上の欲求を最小限にきりつめて、それによって自己の自由と無拘束な状態とを拡大しようとした。考えてみれば、われわれは何百万という、とるに足らない小さな事物の奴隷になっている。(中略)靴とズボンとシャツと上衣とだけは、どうしても必要なものである。これ以上省略するということは、彼にもできなかったであろう。」p.269
・「かつて、彼はわたくしにこんなことを言った。 「人生は、刺激に富んだすばらしい芝居です。しかし、かりにあと三時間で自分は死んでしまうのだとわかったとしても、わたしは別に大した感じもうけないでしょうよ。わたしは、この三時間をどうしたらもっとも有効に使うことができるだろうか、考えます。それから書類を整理して、ベッドの上に静かに横になって、死んでゆきます。」」p.272
・「彼はよく「頭のなかで考えるときに数式をもちいる科学者は、一人もいませんよ……」と言っていた。 実際、物理学者でも、計算をはじめる前にはまず、ある観念とかアイディアを頭のなかで思いうかべてみる。そして、これらの観念やアイディアはふつう、簡単な言葉で表現できるものなのである。計算や数式は、その後にでてくる操作なのである。」p.283
・「彼は、量子論は厭うべき理論だと考えていた。なぜならば彼は、われわれの実在の世界を説明してくれる真に立派な理論は、統計学的な方法をもちいるべきではない、という見解をいだいていたからである。」p.301
・「その彼がプリンストンで、たびたびこんなことをわたくしに言っている。「物理学者たちはわたしのことを、頭の古い、おばかさんだと考えていますよ。しかしわたしは、物理学はやがて今日とはちがった方向への発展をたどってゆくにちがいないと、確信しています。」」p.303