紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

2003年・屋久島の旅

2023-05-28 09:28:36 | 8・山と旅の思い出

昨日のプラタモリを見て、その昔、20年前の旅を思い出した。

鹿児島出身の良流娯さんから誘われて、屋久島の宮浦岳に登ろうということで、計画した旅だった。

その頃は、良流娯さんも私も、山に燃えていたのだ。

そうしたところ、山形で大学院に通っていた息子も一緒にいくといいだし、良流娯さんの子、Cちゃん、その友だちのAちゃんもいくことになった。

息子と旅するなんて、19歳で家を出てから、初めてだった。というより、中学のときに海外旅行にいって以来初めてだったかも。

ただ、息子は山は興味がないので、別行動するといっていた。

ところが、私と良流娯さんと一緒に、女の子たち2人も宮之浦岳に登るとわかると、ついてくることになった。

前日、登り口まで偵察にいった。1人、他の人も混ざって写っている。

翌日は相当早起きをして、6時には登り口についた。

九州最高峰(標高1936m)であり、日本100名山でもある宮之浦岳は、けっこう登りでのある山だった。

若者3人は、さすがに体力があり、どんどん登っていってしまう。

でも、初めての山だし、私たちが見えるところより、前にはいかないでといって、途中で待ってもらったりした。

山登りが初めてのようなAちゃんも、キャーキャーいいながら、楽しんでいた。

そして、山頂についた。

その日は、丸々12時間の行動で、もう山登りはいいというかなと思ったが、みんな縄文杉も見にいきたいという。

そこも、急坂ではないが、トロッコ道を延々と歩いていく往復22kmの長いコースだ。

しかも、自然遺産になって、どのくらいたっていたか、人気のコースで、人が多かった。

でも、樹齢2000年以上ともいわれる縄文杉までたどり着いたときは、みんな、やっぱりきてよかったと思った。

その旅では、みんなでかわるがわるレンタカーを運転して、屋久島一周をしたり、ほかにも、ガイドさんを頼んで、沢登りやカヤックなどに乗った。

沢登りのときの、ガイドさんが小原さんだった。

カヤックを教えてくれたのは、女性のガイドさんだった。

沈する練習。

こうして写真を見ていても、すごく楽しい旅だったなあと思う。

 


巻機山  思い出の写真

2012-05-10 17:48:12 | 8・山と旅の思い出
この間登りそびれた巻機山に、娘や息子と一緒に登ったのは、いつが最初だったか写真を探し出してみた。

そうしたところ、この時が最初。まだデジカメではないので、写りがイマイチ。




H野家と一緒に、行った。

初日は雨で、バーベキューをしたのが、この間行ったキャンプ場の炊事場。







この時の3人は、保育園年長、小学1年生、2年生。 最後は疲れてころぶようになったので、巻機山の避難小屋まで登って、昼ご飯を食べたが、よくみんなそこまで登れたものだと思う。













巻機山の標高差が気になるので、カシミールで描いてみた。
桜坂の駐車場から、1200mの標高差。清水からだと1300mくらい。
すぐに急な登りになるのが、これを見るとよくわかる。



にっぽん山小屋物語

2011-09-08 16:21:37 | 8・山と旅の思い出
先週だったか、民放で「天空の宿へ~にっぽん山小屋物語」というのが放送された。

ところどころ見ただけだけど、思い出深い映像が流れた。

一つが北アルプス・燕岳山頂付近にある燕山荘。
その昔。10日間もテントを担いで、北アルプスの縦走をした時、1泊目がその山小屋の近くのテント場だった。
私たちは、テントを張って泊まったが、近くに見えた立派な山小屋、燕山荘に、いつか泊まってみたいと思った。
そんな優雅な山登りにあこがれた。
けど、それ以後、燕岳に登ったことはなく、その山小屋にも泊まったことがない。

もう一カ所が、北アルプス・七倉岳の近くの船窪小屋。
2008年、2009年と2年続けて泊まりにいった。

前年、滑落事故があった直後に泊まり、翌年、追悼登山をした時に、また泊まった。

船窪小屋の人達は、登山者が来ると鐘をついて迎えてくれて、送り出すときも、無事を祈って、鐘をついてくれる。

テレビを見て、その山小屋の「お母さん」も75歳になられたということで、あらためて驚いた。
私はもう、あのルートを上ったりおりたり、できないだろうと思っているからだ。
お母さんの年齢で、あの大変なコースを上り下りして、なおかつ、登山者のために食事や寝るところを用意してくれるというのは、すごいことだ。
水もないような所で、心のこもった手料理を出してくれる。クロマメノキで作ったゼリーのデザートまでも手作りだった。

<2008年の写真>



今思い出しても、急な道。胸突き八丁じゃなくて、鼻突き八丁の道。







<2009年の写真>













このような場所で、良流娯さんが突然消えたと思ったら、木の根っこにつかまって、斜面にぶら下がっていたときには、キモ冷やした。何事もなくて、ほんとうによかった。





思い出の写真

2011-07-20 13:04:26 | 8・山と旅の思い出
近所の山仲間だったTさんが亡くなった。
7月18日の夜9:45。
私より6歳くらい年上のTさんが癌を患ったのは、何年くらい前だっただろうか。

この数年、あまり体調がよくないのは知っていた。

最後にTさんの家を訪ねたのは、フランス旅行に出発する3日前だった。
あまり食欲がないと聞いていたので、少しだけどサクランボを届けさせてもらった。
すぐに帰るつもりが、「お茶を飲んでいって」といわれて、上がらせてもらった。

いつものようにお茶と餅菓子を頂き、山の話しをたくさんした。
一番楽しかった山は、北アルプスの雲ノ平だといっていた。
あれはいつだっただろうと思って調べたら、1999年だった。

私はいつもくすの木山の会の山行に参加するわけではないのだけど、雲ノ平には一緒に行った。
入山するのに1日では行けない秘境。
大雨で、雲ノ平は通り過ぎるだけの予定が、山荘に1泊することになった。
夢のような時間だったと、Tさんはいっていた。
高山植物の宝庫、雲ノ平。Tさんは花の名前をとてもよく知っていて、知らない花などないくらいだった。


雲ノ平山行の写真。



















謹んでTさんのご冥福をお祈りします。

寝台列車

2010-05-27 17:10:43 | 8・山と旅の思い出
我が家の子ども達が小さかった頃、寝台列車に乗るのが好きだった。
最近ではもう、走っていないが、熊本に行く列車、大分に行く「富士」は夏休み、春休み、何度も乗った。
青森に行く「はくつる」にも何度も乗った。その列車に乗る子ども達の本を書いたこともある。(ブルートレインでいこう!)

その後、ブルートレインは廃止されたりしたので、最近では、北アルプス登山の時に、金沢や富山に行く寝台に乗るくらいだった。

それが、この間鳥海山に行くのに久しぶりに「あけぼの」という寝台列車に乗った。
上野駅から乗るのも、なつかしい。新幹線が走るようになってから、乗車するのは、東京駅になってしまったから。

やってきたのが、昔ながらのブルートレインだと知った時は、旅心をそそられた。




けど、この寝台車。今まで乗った列車とは、並びが違う。
私が乗ったのは、B寝台個室(ソロ)なのだけど、線路に平行に個室がある。
通路をはさんで、二段になった個室が二列並んでいる。

そして、今まで乗ったのは、個室の中に、寝台と少し通路があったけど、これには、通路が全くない。

中に入って、寝るところを作ると、もうドアも開けることができない。究極の狭さというか、最小のスペースで一人分の寝床を確保できるようになっている。

手前の板をのばして、その上にマットレスを置いて、寝る。寝台の下に少し荷物は置けるけれど、大きな荷物はおけない。

 

太平洋側を通らずに、新潟を経由して、日本海側を通って行く青森行き寝台列車があるというのも、初めて知った。
朝起きたら、月山が見えた。

この寝台列車を見て、ずっと以前、良流娯さん母子とアメリカ横断旅行をした時のことを思い出した。
あの時も寝台を組み立てると、ドアがあかなかった。だけど、あの寝台には、トイレも洗面台もついていた。狭いながらも、なかなか工夫されていた。

また、いつか列車にあきるほど揺られて旅をしてみたくなった。

以前の記録・立山登山

2010-04-16 18:00:56 | 8・山と旅の思い出
前日は栂池自然園で遊んだ私たち5人は、その日は立山に行くトロリーバスの始発駅、扇沢駐車場脇にテントを張って泊まった。
始発で立山に上ろうとする車がたくさんいて、一晩中うるさく、あまり眠れなかった。

 

トロリーやロープウェイを乗り継いで、とうとう室堂ターミナルにやってきた。
観光客、登山客、スキーヤーでかなり混み合っていた。




その日泊まったのは、室堂山荘。

 


荷物を預けて、夫とO笹さんのダンナ様、私の3人で雄山(立山)を目ざす。

空気が薄いので、ゆるゆると上り、もうちょっとで一の越のところまでたどり着いた。
そこでアイゼンをつけて上って行く。

 

ぞろぞろと山頂を目ざす人達がいる。

 

そして、山頂。

 

 


山頂付近では、このようにして、スキーヤーが上っていた。こんなに急なところから滑り出すのだから大したものだなあと思っていた。

 


その後、元の道を下って行く。写真をよく見ると、滑った跡がある。
ここはこの時期、スキーヤーにとって天国だったのが、後にわかった。

 


そして、山荘に帰って、カンパーイ! 

 

 


この景色を見ながら飲むビールは最高! と書きたいところだけど、あまり眠れずに、3000mの山に登っておりてきたので、高山病のようになり、途中で気分が悪くて、ビールが飲めなくなった。
すごい残念! 今でも残念!!  
ぜひまたこの雄大な景色を見ながら、生ビールを飲みたいものだ。テレマークスキーで滑った後に・・。


雪の大谷。

 


翌日黒部ダム散策。

 


◆ 以前の記録・栂池自然園

以前の記録・栂池自然園

2010-04-13 07:02:15 | 8・山と旅の思い出
ブログを始めたのが、2004年の5月。
私が雪の栂池自然園に行ったのは、その年のGW中だったので、まだブログを始める以前のことだった。

翌日、立山(雄山)に上る計画を立てたのだけど、前日あいていたので、栂池自然園に遊びにいった。
その時に一緒にいったのは、夫と近くの友人、O笹さん一家3人。

 

まだテレマークスキーというのは、言葉も聞いたことがなかった。
登山靴でてくてく歩いていると、スキーをはいて歩いて行く人がいる。
あ~、こんな所までスキーをしに来る人がいるんだ、と思った。
後に、その人達がテレマーカーだったのがわかった。

 


 


自然園は木がないので、日に焼ける。しっかりカバーして日焼け対策。

 


展望台の下。

 

展望台からの眺めはすばらしかった。後で、スキーをはいてくるようになったけど、ここまでくると眺めがいい。

 


ヒュッテで、ラーメンを作って食べた。

 


その翌年にはテレマークスキーを始めて、翌々年にはここにスキーをはいて初めて来た。
それから何度もここを訪れたが、そんな日がくるなんて、この時には想像もしなかった。また時間のある時に、翌日上った立山のことも書きたい。

◆  山・スキー・旅の記録

◆ 以前の記録・立山

「北アルプス大縦走」今朝のNHK・TV

2009-09-23 10:50:37 | 8・山と旅の思い出
今日NHKで、北アルプス立山~穂高のジャンダルムまで縦走した映像が流れた。
五色ヶ原、薬師岳、雲の平、槍ヶ岳、槍穂の大キレットを通り、23日間かけて縦走したのは、登山家の田部井淳子さん(70歳)とアナウンサーの内田さん(46歳)。
思わず、鹿児島に帰っている良流娯さんに電話をして、見るようにすすめた。

なんと23日間! 見ている間じゅう、この間の洋服はどうなっているのかと、変なことが気になった。
きっと、途中で誰か荷揚げして、食べ物や洋服などデポしたのかな?  などと考えたけど、どうなんでしょうか。

いやあ、しかし、すごいね。23日間の縦走。
内田さんは、そのような縦走は初めてとのことだったけど、それだけに、見ている方もはらはらしたり、興奮したり。

私の縦走の最長は、まだ若かかりし20歳の頃の10日間。テント泊だったけど。
燕岳から槍ヶ岳を通って、薬師岳まで。

もう槍・穂高の大キレットは、私には越えられない。ジャンダルムまで行くのも無理。
そんなことを考えていたら、やはり、その時に行ける最高の山に、夏山シーズン中には行かなくちゃだめねと思った。
来年には来年行ける、最高の山。

久しぶりに、北アルプスのメイン縦走路を見て、来年は、どこかその辺を歩きたいなあ・・などと考えていた。


<写真は去年登った槍ヶ岳>

 



旅の適齢期・アルバムのつづき

2009-09-16 06:19:27 | 8・山と旅の思い出
先週、北アメリカ大旅行のアルバムをアップしていたら、写真の枚数が多くなったので、少し間があいたが、またその時の写真をのせてみる。
主に交通機関の写真をアップしてみる。

移動は主にアムトラックという列車、長距離バス、そしてレンタカーである。

レンタカーは主にハーツで借りた。乗り捨てのこともあったが、大体は、元の場所に返した。

 

1台に5人と荷物を詰め込んで転々と旅をする。

 


それにしても、その時の旅は、失敗も数々あった。ボキャブラリーは少ないながらも、一応ほぼ希望は伝えることができる。とにかく、こうしたいということは、日本語で話したって、通じるものなのである。

ところが、想像とちがうことが起こると、何の事やらちんぷんかんぷん。

今写真をアップして思い出したのが、アムトラック・スルウェイというバス。

 


やけに立派な駅がロスアンジェルスの町にはあるのだけど、私達が行こうとする方面には、そこから列車は出ていないのである。どこかにバスで行ってから、乗るのである。

 


チケットを出したら、このバスに乗れといわれ、外に連れて行かれた。訳もわからず、みんなで乗った。
ふつうは、「列車」のチケットを買ったのだから、バスに乗ったとしても、せいぜい5分くらいの所だと思うでしょう。
ところが、1時間半。えんえんとバスは走り続けた。まちがった乗り物に乗ったと思って、ちょっとひやひやした。
その時の行き先こそ、唯一宿泊の予約をしていたセコイアの森だったからだ。1時間半も方向違いに進んだら、もどるのだって時間がかかる。

1時間半乗って、ベイカーズフィールドという駅でおろされるまで、もうこれはとんでもない所に連れて行かれると思った。


モーテルは泊まりだけで、食事がついていないので、朝食はこんな風に、カフェで食べた。パンケーキがおいしかった。

 


食料を積み込むためにマーケットにもよく行った。

 


アムトラックは、今でも旅情をかきたてられる。その後、事故も多発したが、二階建ての相当大きな車両がスピードを出して走ってゆくのだから、無理ないと思われる。

フロリダのアムトラック・ステーション。

 

アムトラックの中の食堂。

 


アムトラックの・乗車員の人たちと。

 

旅の適齢期

2009-09-11 06:53:28 | 8・山と旅の思い出
旅に適齢期というものがあるなら、26歳の時の旅は、やはり、あの時しかできないものだった。

けれど、その旅のおかげで、もっと広範囲な旅を、それから12年後にすることになる。アムトラックという長距離寝台列車や、長距離バスでの移動。行った先ではレンタカーを借りて転々とした40日間の北米大旅行。

アラスカ、カナダのバンクーバー、アメリカのカリフォルニアからセントルイスを通って、アムトラックに乗ってフロリダまでの大陸横断の旅。さらにフロリダを南下して、キーウェストへ行くフリーウェイの途中までのドライブ。
フロリダからはまたアムトラックにのって、ワシントン、ニューヨークまで行った。

この時も、明日はどこにいるのかわからない旅。
小学校5年の息子と、3年の娘、途中からは良流娯さん母娘(小2)と合流しての旅。
子ども連れだったので、何の心配もなく長々と旅をすることができた。子どもを置いてきていると、そちらの方が気になって、用事をすますと、すっとんで帰ることになる。

あの旅をしたのは、38歳の時だったけれど、やはり適齢期の旅だったなあと、沢木さんの本を読んで思った。
自分だけではなく、子ども達3人が、そういう旅に耐えられる年齢になったという意味で、子どもと一緒に旅をする適齢期だった。
あの旅の後思ったのは、ほんとうに地球はおもしろい。あのおもしろさを、子ども達と一緒に体感できたのは幸せだった。

<旅のアルバム>

■ アラスカ

氷河クルーズ

 


 


ファイアーウィードが咲く野っぱらにあるモーテルに泊まった。

 


 


■ 巨木の森(カリフォルニア)・・ここはあちこち旅をしたけれど、今でも一番好きな所。この国立公園も26歳の時の旅で、初めて行き当たった。
アメリカの国立公園は園内の小屋に泊まろうと思うと、予約が必要。ここだけは、ちゃんと予約をしていった。

 


 


 


 


 


 


 


■ セントルイス

ミシシッピー川。ここからトムソーヤーの物語の舞台を見に行こうと思ったけれど、旅に疲れて、みなつぎつぎに体調を崩したので、やめて、ただクルーズをして、のんびり過ごした。

 


 


■ フロリダ

 


 


 


 


マナティー。

 


 


(旅のアルバムのつづきはまた今度)