紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

奥山貴宏さんの本

2005-10-31 06:21:09 | 13・本・映画・演劇・音楽など
このBlogにも書いたが、33歳で肺ガンで亡くなった奥山貴宏さんの著書、

「31歳ガン漂流」
「32歳ガン漂流エヴォリューション」
小説「ヴァニシングポイント」
「33歳ガン漂流 ラスト・エグジット」

の4冊をとうとう読み終えた。



これらは、全て、余命2年と宣告されてからの、奥山さんの記録である。

3作は、病状報告現在進行形のブログ。
一作は、小説という形の自伝的、青春時代暴走記的な読み物。


最初にテレビで奥山さんのドキュメンタリーを見た時、私なら……と考えた。
もし余命2年と宣告されたら、私ならその2年間何をするだろうと。

やはり、楽な道を選ぶだろうなあと思った。
きっと山は登れないだろうから、せめて山の見える所に、できるだけ長くいたいと思うだろう。
北アルプスとか上越地方などに。

ところが、奥山さんは、両親のすすめるホスピスを拒否し、最後まで荻窪の自宅と病院を行き来し、執筆活動を続ける道を選んだ。退屈な中で、ぬるま湯の中で、本は書けないという信念にもとづいてのことだった。

この2年間に書かれた4冊の本によって、私はそれまで名前も、どんな人かも、全く知らなかった奥山さんの生き方、思想、人柄に多面的に触れたような気がする。

最後まで、燃え尽きるまで、書くことを続けた奥山さんのご冥福を、あらためて心からお祈りしたい。

そろそろ冬の準備

2005-10-29 11:51:44 | 4・テレマークスキー日記
今日明日と、夫と娘は、築地山岳会の人たちと、今年最後の沢登りに泊まりで出かけていく。

それが終わると、いよいよ雪山に向かうのだろう。
娘は今年山デビューしたのだけど、もうじき冬山シーズンを迎えるにあたって、冬山道具一式買うつもりでいる。
雪の山は、ほんとうに美しい。人も少ない純白の世界。

うらやましいけど、荷物は重いし、夏の何倍もの体力がいる。
それに、経験者と一緒じゃないと、雪崩や滑落など危険がつきまとう。
なかなか私には行くチャンスがない。

その代わりというわけではないが、私は今年の冬は、気合いをいれてテレマークスキーの練習をしようと思う。
シールをつけたスキーをはいて山に登って、上からテレマークスキーでおりてくる。

やっぱり、リフトに乗って、ゲレンデを滑るより、自分の足で山に登るのが好きだ。
というのを、去年初めてテレマークスキーをして感じた。
あまり名のない山でも、雪山気分が味わえる。
登るのが好きで、滑るのが好きな人にとっては、テレマークスキーは最高に楽しい、冬のスポーツだ。

そのために、今年はテレマーク用のスキーセットを買おうと思う。テレスキーを貸しているところは、あまりないので、マイスキーを持っていないと、滑れないのだ。
まだ初心者なので、何を買ったらいいのかわからないけど、よく山道具を買うカモシカスポーツから、案内のハガキが届いた。
11月といえば、もうすぐだ。スキー特別受注会というのに、いってみようと思う。

学園小の頃の思い出

2005-10-27 11:30:50 | 15・心に残ること
私が教師をしていた頃、ふつうは4時頃には学校が終わるので、帰宅してもいいのだった。

今も教師をしている友人たちが、夜7時に門を出られたら早い方だというのを聞くと、近頃の先生は大変だなあと思う。それも、研究会用の資料作りとか、子どもたちの授業から離れたことで忙しいという。

そうはいいつつ、私が教師をしていた頃は、4時に帰ることなどめったになく、学校でいろいろ教えてもらったり、スポーツをしたりして、勤務後の時間を楽しんでいた。
当時、学校対抗の試合などもよくあって、軟式テニスの試合に出たり、バレーボールをしたり、男の先生達のソフトボール大会の応援などにも行った。

その頃一番好きだったのは、陶芸だ。
図工のO先生に教えてもらい、土も買ってもらい、かなりのめりこんだ。
勤務時間後になる前から、図工室があくと、こっそりいって、ろくろを回させてもらった。
他にものめりこんでいる人がいて、それはY校長だった。
教師をやめた時に、陶芸を続けられなくなったのは、とても残念だった。

O先生はその後、小学校を中途退職され、函館にいって、窯場を開いた。
10年ほど前に、学園小時代の同僚のKさん(パートシュフさんがキノコみたいな名前といった人)とIさんと一緒に、函館のご自宅に遊びにいった。
函館の海を見おろせる高台で、のぼり窯を開いていた。


景色もよく、すばらしい環境に囲まれて、日がな一日ろくろを回して暮らしていけるなんて、すごいいい生活だなと思った。

けれど、楽なことばかりではなく、冬は雪かき(自宅用にブルドーザーがある)、窯で使うまき作りなど、かなりの重労働を強いられるということだった。

(写真左:O先生手作りの庵の前。上:庵の中)


また行きたいと思いつつ、なかなか他の人と時間を合わせるのが難しく、ずっと行けなかった。
それで、2年前に旅の途中で、一人で遊びにいった。
元気いっぱいの孫が二人、家の中で駆け回っていた。
右の写真は上のお嬢さん。お父さん(O先生の息子さんは彫刻家)作の像と一緒に写す。

映画「黒部の太陽」を見てきました

2005-10-25 07:59:13 | 13・本・映画・演劇・音楽など
山好きのものにとって、この黒部という地名は、聞いただけでちょっと胸がときめいてしまうのだ。
石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」は昭和43年に公開された。

その後、劇場、映画館でしか上映しないようにという石原裕次郎の意志により、テレビでも見られない、DVD化もされない“幻の映画”といわれるようになった。
夫と娘が属している築地山岳会のK氏からその話しを聞いて、ぜひ見たくなった。

たまたま調布市制50周年記念イベントの1つとして、調布にゆかりのある会社の映画が無料上映されることになり、昨晩近くのグリーンホールまで見にいった。

昨年ゴールデンウィークに、立山室堂平までいった時に黒部ダムを見たが、そこまでのルートといい、巨大なダムといい、よくこんなものを作ったなあと思っていた。
そのダム建設の映画である。
この映画は、当初ダムを作る話しがメインかと思っていたら、そのダム建設を始める前の、関電トンネル工事の話しだった。数々の困難を乗り越えて、貫通するまでの物語だ。
そのトンネルができて、初めてダム建設の資材を運ぶことができたのだった。

物語そのものもおもしろかったが、雪の立山連山を見ているだけで、心惹かれた。工事の偵察のため、雪山に登るかっこうが、すでに絶えて久しいヤッケ、キスリングだったりと、そんな時代から山に登っている私は、昔を思い出したりもした。

(写真は昨年いった黒部ダム。近所の友人O一家と。夫撮影)

ショック!! (追記あり)

2005-10-22 11:15:52 | 12・Blog・PC・カメラ・家電など
パソコンのキーが、前々から、一つだけすぐに反応しなかったのだけど。

今日になったら、なんと、こんな風に……





とれちゃったー。(泣)

ふつうの人にとっては、あんまり使うことがないキーだけど。

かっこ閉じる。
私は使うんだよね。

仕方ないので「かっこ」で出るように辞書登録した。

しかし、遂に4代目のパソコン購入を考える日がやってきた。

頭痛いような気もするけど……。
それはそれで、楽しみだったりして。

今度はテレビが見られるのにしよう……とか。
DVDには絶対に焼けるのにしなくちゃ……とか。
ハードディスクも大きいのにしよう……とか。

そのたびに値段が跳ね上がるから、やっぱり頭痛いかも。

ちなみにパソコンショップに修理代金を聞いてみたら、たった一つでも、キーボード全取っ替えになるので、けっこう高い。

それ聞いて、次回は、何が何でもデスクトップ型にするんだと思った。

追記)
この後、Tさんから教えて頂きまして、いわれたようにしたら、ちゃんと復活しました。
しかも、それまで5回くらい押さなくちゃ反応がなかったのに、ばっちり1回でだいじょうぶに。
お騒がせしました! Tさん、どうもありがとう。
だけど、あのパソコンショップの店員さんはなんなんだ?

迷いの時

2005-10-21 13:15:23 | 15・心に残ること
後にも先にも、私の人生で、あんなに迷ったことはない。
教師生活二年目で、教師をやめようと思った時のことだ。

驚かれたり、あきれられたり、反応はいろいろだったけど、やめた方がいいなんていった人は一人もいなかった。
安定した職業だし、男女の格差もないし、充実感の得られる仕事だったし、女性が働く場としての条件は整っていたし。

その後、やめてから最初の本が出るまでに、10年の年月がかかった。
それは、小学校を卒業し、中学校を卒業しても、まだおつりがくるほどの時間だ。
当然のことながら、平坦な道のりではなかった。
が、あれだけ迷って、やめる決心をしたのだから、後悔はしなかった。
けれど、もし…と考えることはよくあった。
もし、今も先生をしていたら……と。

トップの写真は、終わりの日が近くなった頃の、大泉学園小学校の屋上で写したものだ。誰がシャッターを押してくれたのか、まったく覚えがない。
T・M君がボールを持っているところを見ると、ドッジボールをして遊んだ後に撮ったのだろう。
毎日毎日が楽しくてしかたがない頃だった。

記憶の不思議

2005-10-20 13:35:04 | 15・心に残ること
この間、「やかまし村の子どもです」といって、最初にコメントを書いてくれた「あしおと」さんは、実は自分のBlogを開いている。
きのう、ブックマークに登録しました。

アドレスを教えてもらってから、一体誰なんだろうかと気になって、たくさんの記事を読んだ。
けれど、読めば読むほど、誰なのかわからなくなって混乱してしまった。
30年の時が流れているのだから、当たり前といえば、当たり前なのだけど。

二日間、私が登場する記事を書いてくれている。
最初の記事を読んでもわからなかった。
いきなり、家庭訪問の時に、ケーキをぺろりと平らげたには、思いきり笑ってしまった。

そこで、名前を白状してくれた後、二日目の「えんぴつ日記」を読んだ。
でも、白状してくれる前にこれを読んだとしても、おそらくわからなかっただろう。

記憶というのは不思議なものだ。
同じ時に、同じ場所にいて、覚えていることが全くちがうのだから。
全部を覚えていられない以上、とくべつに印象が強いことだけが、頭の中に残っていくのだろう。

どちらかというと、楽しかったことより、大変だったことの方がぱっと頭に浮かぶ。
パートシュフさんのに、校舎の裏で、雪合戦をしたと書かれている。
ところが、この日は、車で通勤していた新米ドライバーの私は、チェーンをかけるのに一人で四苦八苦。
遅刻せずに、学校にたどり着けたのに、ホッとして、それ以外のことが記憶から抜け落ちた。
でも、今回おかげで、みんなでけっこう本気で雪合戦をした時のことを思い出した。
記憶は、少しのヒントでよみがえる。

最近、姉がパソコンのインターネットを覚えた。時々コメント欄に登場する。
そうすると、同じ家で長年過ごしながら、ほんとうに覚えていることが全くちがうのに驚く。
同じ家にいたんだろうかと思うほど。
一緒に旅をした時の記憶も、まったく別のことが残っている。
ほんとうに不思議だなあと思う。

(写真:教師をやめてちょうど1年目に森林公園にいった時のもの。お母さん達が企画してくれて、うれしい対面となった。1年に1度の集いは、それから数年、息子が生まれるまで続いた)

◆トラックバック
パートシュフさんの::::プチ☆ゴージャス!::::「えんぴつ日記」 

昔ここで…

2005-10-19 12:22:27 | 15・心に残ること
昨日、一昨日と、思いがけない出会いがBlogを通してあった。昔の教え子との出会い。

その後、あしおとさんからはメールがきて、
開設しているBlogのアドレスも教えてもらって、
ずいぶんたくさんのBlogの記事を読んで、
あれやこれやのヒントから考えたのだけど……。

結局当てられなかった。残念!(笑) 

そして、とうとう、あまり悩ませても悪いといって、名乗り出てくれた。
名前はR子さん。当てられなかったのは、2学年を終えた後、引っ越していったからだ。一度は候補にあがったのだけど、引っ越したので、その後大泉学園には住んでないだろうとふんだ。ところが、それが間違いで、今はまたその近辺に住んでいた。

それで、思ったのだけど、人によっては、6-7歳からある程度の大人になる課程で、性格というかそういうものが、驚くほど変わることがある。
私自身などは、全く別の人格になったと思うほどだ。変わった境い目は、中学入学の時。それまでは、人見知りも激しく、大人しく、教室の隅でじっとしているような子どもだった。

だから、そんな風にあしおとさんも変わっちゃったかなあと思ったり、もうほんとうにいろいろ考えた。
実際にわかってみると、そんなに変わっていない。…気がする。(笑)

今から5年前、2年間を過ごした大泉学園小を訪れたことがある。その頃たまたま出会った友人が、学園小の学区域にあるナカタヤさんのお菓子をくれたのだ。聞いてみると、ナカタヤさんから歩いてすぐの所に住んでいるという。
それで、一緒に、あのなつかしい地を訪れた。

小学校は変わってないけど、周辺はものすごく変わっていて、浦島太郎の気分だった。みんなどうしてるだろうと過ぎし日のことを思った。
あれから、5年。こんな形で交流できるなんて、人生は楽しい。

なきむしさんも誰かなあと思っている。実はちょっと見当がついていたりして。

嬉しい日

2005-10-18 08:08:09 | 15・心に残ること
Blogを始めて1年半たつが、きのうほど嬉しかった、と思った日はない。ああほんとうにBlogを始めてよかったなあ。

最初にBlogを書き始めた時、「紅蓮」というハンドルネームを使ったものの、サブタイトルに本名をいれているので、いつか、昔よく知っているという人が訪れてくれるかもしれないと思っていた。
ちなみに、何度か書いているが、この紅蓮という名は、スェーデンの児童文学作家、リンド=グレーンの名からとっている。

そうしたら、ほんとうに訪れてくれたのだ。
きのうはBlogも書かずに、昔のアルバムを見て、昔に返った。

その時代の人に会うと、その時代に返るというけど、私にとって、大学を卒業した直後から2年間は特別な期間だ。
何かがぎゅっと凝縮して、中味がぎっしりと詰まっている時代。
他の小学校時代や、中学時代などと同じように、もう二度とそこへはもどれない時代。
だからこそ、宝物のように大事な、いとおしい時代。

その2年間、私は練馬区の大泉学園小学校というところで、教師をしていた。
1年と持ち上がりで2年の担任。
その間、大好きなリンド=グレーンが書いた本の題名からとって、「やかまし村」「続・やかまし村」という学級通信を出していた。

第一号の最初には、こう書いた。

私は小さい頃からリンド=グレーンの童話が大好きでした。
そして、数あるお話の中でも、「やかまし村」の三冊の本を出会った最初の印象を忘れることができません。
今、学級通信を出すにあたって、「やかまし村」に出てくる子どもたちのように、やさしく、明るく、のびのびと育ってほしい。そんな思いを込めて「やかまし村」を作りました。……

私の人生で、あとにも先にも、受け持ったのは、そのクラスの子どもたちだけだ。
スタートは40人。転校生がいたので、全部で、45人くらいの子どもたち。



きのうは、コメントをくれたのは誰だろうなあ、といろいろ思いめぐらせた。
受け持ったのは、全部で45人だけど、私の今の名前を知っていて検索できる人は案外少なく、名前で(名字ではなく)Tさん、Yさん、Mさん、S君の4人かな?。
それとも、他にも、もしや私の今の名前を知っている人はいるかな?
考えているだけでも楽しくて、あの頃のみんなのあどけない顔がぐるぐると思い浮かんだ。

あの頃の子どもたちはみんな、今どうしているだろう? 今はもう30代半ばになってはずだ。
みんな、どこかの空の下で、幸せに暮らしているといいなあ。

追記)この運動会の写真は、父が新米教師である私がちゃんとやっているか、わざわざ練馬の学校まで見にきて、写してくれたものだ。

連句秋の巻がスタート!

2005-10-15 10:29:11 | 7・連句・俳句・短歌
昨晩は、渋谷で連句の集まりがあった。

前回、せっかち歌仙・その12「河鹿笛の巻」の打ち上げは、台風で流れてしまったので、つぎの「その13・秋の巻」を始めるに当たって、スタートの会を持つことになった。

少艶、長者巻、晩菊、山八訪、紅蓮の5人が参加。お酒を飲みながら、句を酷評(?)しあい、話しは健康談議まで広がり、楽しい一時だった。

その席で秋の巻の発句を選んだ。
提出された発句は、以下の通り。

秋の昼 編む手休めて 空あおぐ

<菊の節句(重陽節)にちなんで吟ず>

朝まだき 濡れる我が袖 菊の露★

菊の綿 拭えど消えぬ 首のすじ

匂い立つ 秋耕の土 黒々と

霧雨に 濡れてしっとり 花薄

子どもらの 笑顔を思い 栗をむく

霧立ちて 紅葉も山も 霞むかな

透きとほる  空より手紙   赤とんぼ 

雨粒の 千の煌き 新刈田    

峠越え 薄は風の 道しるべ★
   

★の2句が最高得点を集め、最終決戦にもつれこんだ。
その結果、

朝まだき ぬらす我が袖 菊の露  少艶

に決まった。

片方の句(茶目猫作)もとてもよいので、なかなか意見がまとまらなかったが、最終的に、「峠越え」という言葉が、いまひとつという感想により、少艶先生の句に決まった。

昨日は、発句をみんなで集まった席で選んでみたが、やはり、みな発句として良い句を選ぶというより、自分の好きな句を選ぶというのがわかった。好きな理由としては、言葉の美しさ、句から思い浮かぶ情景などが重要視されるようだ。

今日から、秋の連句 「菊の露の巻」 がスタートする。楽しく巻きたい。