紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

野川の秘密の場所

2004-06-30 06:45:08 | 16.調布のできごと
この近辺に住んでいる人たちは、野川周辺で、いろいろな秘密の場所を知っている。
Kさんという友人は、この一ヶ月ほどの間に、何十回と桑の実をとりにいったというし、1本ヤマモモの木も見つけたという。
くすの木山の会の人たちは、夜トレーニングで野川にそって、歩きながら、タケノコをとってきたりしている。とりたてを焼いて食べると、おいしい。
まあ、でもそういうのは、みんなとっているけど、ほんとうはとっていいのかどうかは、よくわからないのである。深く考えずに、おいしく食べればいいことにしている。

とるのではなく、見るだけの秘密の場所を、実は知っている。
ホタルである。先々週から先週にかけて、二回夜、ホタルを見に行った。秘密ではないホタルを見る場所も調布にはあるけど、そこは人がぞろぞろいて、ちょっと風情にかける。
でも、その秘密の場所は、こわいくらい真っ暗で静かな森の中にある。あまり知っている人もなく、夜ふけでもあるし、ほとんど人もいない。たまに会うと、くすの木山の会の人だったりする。

やはり「はけ」から水がしみ出ているので、湿地のようになっているから、ホタルのエサであるカワニナが生息するのだろう。10匹(それ以上か?)のホタルが飛んでいるのを見るのは楽しい。

野川にそって

2004-06-29 14:01:55 | 11・健康
野川は、始まりは国分寺あたりの日立の研究所で、最後は二子玉川あたりで、多摩川にそそいでいる。その間に「はけ」の道が続いている。「はけ」というのは、段丘の下から水がわき出ている所で、そのため野川は水がわりときれいなのである。

先々週の日曜日には、娘と二人で、野川にそって、野川公園の横を通り、武蔵小金井まで歩いた。途中寄り道して2時間。駅近くの沖縄料理の店で昼ご飯を食べ、帰りもまた同じ時間かけて、歩いて帰った。
暑い日だったので、子どもたちが川の中に入って、遊んでいた。ザリガニをとったり、サカナをとったり。

山に行くほどの時間はないけど、昼間あいている時は、よく野川にそって歩く。野川公園どまりのこともあるし、野川公園から、調布の飛行場に行くこともある。飛行場を見下ろす武蔵野森公園(っていったか?)から、おりてくる飛行機を見ていると、あきないのである。小さい飛行機で、羽もふらふらしているけど、気軽な感じで離陸したり、着陸したりしている。ここも調布で好きな場所の一つです。

今日は「やり句」で

2004-06-28 13:55:59 | 20・日々のできごと
連句には、「やり句」というのがある。季節が入るなど手がこんだ句が続いたような後、楽な気分で、あっさりと詠む句のことです。
それで、今日のブログはやり句でゆきます。

家は調布にあるが、近くを野川が流れている。この野川は、私がすごく好きな場所のうちの一つです。野川のふちを通りたくて、わざわざ中央館ではなく、小さな佐須図書館に行く。スーパーも、遠くの生協まで足をのばす。
毎年、6月の初め頃には、カルガモが、生まれたばかりの、毛がほやほやしているヒナを十羽ほど連れて泳いでいる。今年は、見かけないなあと思っていたら、先日少し大きくなったカルガモを見かけた。あのほやほやの毛の小さなヒナを見られなくて、今年はちょっと残念だったのだ。

スキャナー

2004-06-27 15:55:39 | 20・日々のできごと
去年、なぜスキャナーを買ったかというと、家のアルバムを整理しようと思い立ったからです。
近所に引っ越してきた友人のKさんは、引っ越しの機会に、アルバムを三冊くらいにまとめて、あとはみんな処分したという。それを聞いて、私も、ずっと気になっていた30冊近くもあるアルバムをどうにかしようと考えた。

なぜこんなにたくさんの写真が、家にあるかというと、大半が、二人の子どもたちと一緒に海外を旅した記録である。子どもたちが小学生の頃、好き、嫌いにかかわらず、かなりの頻度で、私は海外に連れていった。たいていは、本を書くための旅行だった。旅に出るたびに、子どもたちや、景色、出会った人々の写真をとっているうちに、たまりにたまって、こんなにたくさんになってしまったのである。

もう一生二度と行けない国もあるし、息子と娘の子ども時代の写真も、ここにしかない。同じような中からピックアップして、あとは捨てればいいのだけど、それもなかなか難しい。そこで、フィルムからスキャナーでとりこんで、パソコンでみられるようにしようと考えた。
2万いくらかする、12枚いっぺんにスキャンできる機械を買ってきた。膨大な数のフィルムがあったので、全部をスキャンするのに、半年くらいかかった。それを6枚のCDに焼いて、娘と息子にもコピーしてあげた。これで、いつでもアルバムを処分できると思って、ほっとした。

(写真は、人がマメつぶみたいに見えるセコイアの森で。一緒に旅した友人の良流娯(らるご)さん親子と娘と息子)

なつかしい光景

2004-06-26 10:01:03 | 9・昔の風景
父が残してくれたフィルムは、大小、形がばらばらなので、一枚ずつスキャンして取り込まなくてはならない。そのため、すごく時間がかかる。今市販されているフィルムなら、去年買ったスキャナーでスキャンすると、いっぺんに12枚とりこめるので、それほど時間はかからない。

でも、フィルムをスキャンすることで、昔の家や人や町が、パソコンの画面いっぱいにあらわれるので、小さな写真で見るより、ずっと臨場感がある。思わず知らず、パソコンの中にすいこまれてゆきそうになる。できれば、なつかしい、お兄さんと会って話しがしたい。

当時、家の前は、お米屋さんだった。今なら車で配達するのだろうだけど、その頃は自転車だった。黒いがっしりした重い自転車で、後ろに、竹で編んだ大きなカゴがくくりつけてあった。たまに、お米屋さんで働くお兄さんたちは、仕事の手があくと、その後ろのカゴに、私を乗せてくれた。仕事中だから、そう長い時間ではなかったのだろうけど、カゴの中に入って、そこから外をながめると、いつもの町とはちがって見えた。楽しくて、ドキドキするような時間だった。

あれは何歳頃だったのか。あのカゴにすっぽりおさまるのだから、3-4歳というところでしょうか。
写真は、幼稚園の時。お米屋さんの前で。自転車がちょっとだけ見える。

自分のアルバムができた

2004-06-25 12:23:41 | 9・昔の風景
写真の話しのつづきです。
私は3人姉妹の真ん中です。そのせいなのか何なのか、私は自分の小さい頃の写真がのっているアルバムというのを持っていないのです。写真は、二歳上の姉が持っているアルバムにのっているので、時々見せてもらうことはあったけれど。

その後、5歳年下の妹が生まれると、どうやら被写体は、妹に移ってしまったようなのですね。妹も、たくさん写真がうつっているアルバムを持っていて、そこに、一応私の写真は、ついでのように(?)のっています。
そういうわけで、私は幼い頃の、自分のアルバムや写真というのを、今まで持っていませんでした。
それが、今年大量のフィルムを見つけ、私は初めて自分のアルバムをパソコンに作ることができました。嬉しい。

こんな写真があったんだというのも見つかったのだけど、それは私が生まれてすぐの写真で、お産婆さんに産湯にいれてもらっている時のもの。なぜ、こんな写真が現像されず、今まで一度も見たことがなかったのか不思議だけど、自分自身の赤ん坊時代と対面するって、何だか妙におかしなものです。

このBlogにも、昔なつかしい写真を、たまにのせているのだけど、写真をスキャナーで取り込むのは、けっこう時間がかかり、今もまだ続行中です。この先何年もかかりそう。

(写真は運動会ので、後ろが高二小の講堂。ここで映画を見た)

昔のフィルムを見つけた

2004-06-24 06:28:34 | 9・昔の風景
絵本 「けやきの木の下で」 を書く時にイメージした、当時の杉並区の久我山の町の写真です。バックに見えるのがけやきの木です。
これは、K子ちゃんともう一人近所の子と一緒に久我山幼稚園に登園するところです。
ということは、47年くらい前の写真ですね。すごーく古い。(笑)

この古い写真は、実は今年になって、フィルムのまま見つかったものです。
2月に父が亡くなり、父の遺品を整理していて、ダンボール箱一杯のフィルムを見つけました。
それを一枚ずつ、スキャナーで取り込んでみると、昔の子どもの頃の町が再現され、一気にタイムスリップしました。
父は、写真が好きで、家には、かなりたくさんのカメラがあった覚えがあるのだけど、こんなにたくさんの写真を撮っているなんて、全く知りませんでした。
しかも、私が小学校の高学年になって、オリンパスのバカチョンカメラ(なつかしい呼び名だ)が出回った頃から後の写真は、現像されて、アルバムに残っているけれど、それ以前の写真は、そんなにたくさん家にはなかったのです。バカチョン以前、父はよく自分で写真の現像をしていたのですが、きっと印画紙代とか高かったのか、手間がかかったためか、全部を現像しなかったのでしょう。現像する時の液は、酢のようなにおいがしたけど、あのにおいもなつかしいです。

「けやきの木の下で」ができるまで

2004-06-23 07:00:35 | 2・仕事の周辺
1994年・秋に、<この本だいすきの会>の会報にのせた文章です

「本当に暑くて長かった今年の夏、皆さんは海や山へ、田舎や故郷へと出かけたことでしょう。その“田舎”とか“故郷”という言葉を聞くと、私は心底うらやましいなあ、と思ってしまうのです。親の代から東京生まれ、東京育ちの私には、田舎はもちろん、故郷もあってないようなもの。私の放浪癖は、多分そんなところから来ているのかもしれません。

ところで、私が生まれたのは、東京の杉並区。現在住んでいる所からは、車ならわずか二十分の距離だけれど、今そこに行っても、タイムマシーンでもない限り、私の故郷には出会えません。

私が子どもだった頃、そのあたりは、一面畑が続く東京の田舎でした。我が家の子どもたちにそんな話しをしても信じてくれませんが、共同の井戸ではなく、自分の家の水道の蛇口をひねって、初めて水が出るのを見て驚いたのは小学生になるかならないかの頃。家の前の道が砂利道から舗装道路に変わったのは、いくつの時だったでしょうか。ロードローラーが行ったり来たりして、平らな道ができるのを、あきずに眺めていたものでした。

その頃、私の家の近くの地主さんの庭の片隅に、大きなけやきの木がありました。けやきの横は、原っぱになっていて、私は大勢の友達と木の所に集まり、朝から暗くなるまで遊んで大きくなりました。

私が住んでいる間にも、町は変わっていきましたが、結婚してそこを離れた後は、またものすごい勢いで変貌をとげました。けれども、訪れる度にまわりの家や風景ががらりと変わってしまう中で、唯一そのけやきの木だけは変わらずにいました。私は実家に帰る度に、その木の下を通ると、ほっとしたものでした。
それが、数年前のある時、突然切り倒されてしまったのです。私にとって、生まれた時から見てきた故郷の原風景ともいうべきものが、永遠に失われてしまったと知った時は、本当にがっかりしました。

やがて、私はせめてその風景を物語の中に残せないかと考えるようになりました。そして、いろいろ試行錯誤したあげくに、絵本のストーリーを考えました。
物語の出発点は、まず私はけやきが切られる時を知っていたら、見に行きたかったと思いました。そして、多分、見にいっていたら、自分のためにけやきの一部を持って帰りたかったと思いました。でも、けやきはものすごく大きいので、その木の下で一緒に遊んだ友達や、それまで代々そこを遊び場にして育った人達にも持って帰ってほしいと思いました。……という風に物語は展開して、私のはじめての絵本「けやきの木の下で」はできあがりました。 」


けやきの木の下で

2004-06-22 07:07:50 | 1・作品紹介
私の唯一の絵本作品です。
子どもの頃、いつもこの「けやき」の木の下で遊んでいました.

 1994年5月

 絵・鈴木まもる

 PHP研究所(絶版)


「おばあさんの庭のけやきは200歳。たくさんの思い出がつまったこのけやきの木が、都合で切りたおされることになった。
なんとか、この大木の“いのち”をつなげたいと、おばあさんは、考えて考えて、ある日、一まいのかんばんをたてました…。」


★この本に関するBlog → 「けやきの木の下で」ができるまで

一ヶ月過ぎた

2004-06-21 06:41:49 | 12・Blog・PC・カメラ・家電など
Blogを始めて、一ヶ月が過ぎた。
最初Blogを始めようと思った時に、書くことがなかったらどうしよう。とは思ったけど、書くことがありすぎたらどうしよう。とは全く思わなかった。ところが、いざ始めてみると、書きたいことって、けっこう後から後からあるものです。といっても、まだ一ヶ月だから、今後はわからないのだけどね。

読んでくれている人から、10センチ以上は長すぎる。といわれました。10センチって何かと思ったら、パソコンの画面で、文字が続くたての長さのようです。それで、書きたいことがあっても、とりあえず10センチでしめることを心がけています。うまくいく時といかない時があるけど。

でも、今まで文章を書くのを仕事にしてきて、書いた分量を、何百字とか原稿用紙何枚とか数えることはあっても、センチではかるなんて、初めての経験だなあ。