暗い中でドアノブに手をかけながら、もう一方の手で室内灯のスイッチを探していた。
「どなた?」
「あけて・・」紛れもないミナコさんの声だった。
玄関の、それほど高くもない天井の蛍光灯がパチパチと瞬いて点き、おれが押した鉄扉の隙間から、ミナコさんが転がりこんできた。
「どうしたの、こんな日に・・」
おれは、思わず手を差し伸べてミナコさんを抱きとめた。ポロシャツに短パン姿のおれの胸部に、ずぶぬれのブラウスが張り付いた。
身構える間もなく押し付けられた湿り気と冷たさが、おれの意志を無視して、生理的な反応を見せた。
「ううッ。・・可哀そう。一番ひどい降りに出くわしちゃって」
おれは、一瞬見せてしまったためらいをかき消すように、あらためて強く抱きしめた。
ミナコさんは、濡れていることなど眼中にないように、「来たわよ、わたし来たわよ」と、うわ言のように繰り返した。
おれは、ミナコさんをうながし、一脚だけの椅子に腰掛けさせた。
「とりあえず、服を脱いで、シャワーを浴びなくちゃ。そのままだと、風邪をひいてしまう」
濡れたブラウスを、片手ずつ引き抜いた。
いつも思うのは、女性の衣類の厄介さだった。理想のラインを優先させるせいなのか、体にまつわりついて苦しそうにさえ見えた。
ブラジャーも、コルセットもそうだ。ハイヒールだって、考えようによっては拷問具だ。わざわざ、あの窮屈さに身を委ねるなど、男のおれには考えもつかない行為である。みんなマゾじゃないのかと、すっかり空想の世界に寄り道したおれは、日頃の疑問を反芻していた。
雷鳴とともに駆け込んできたミナコさんは、つかの間、放心状態にあったのだと思う。おれが下着にてこずって中断すると、にわかに羞恥心を甦らせて、おれの差し出すバスタオルを体に巻き、その下でもぞもぞと動いた。
おれはミナコさんを抱えて、浴室に急いだ。
シャワーを持たせると、ミナコさんは、首から肩へと狭い範囲で温水をあて続けた。流れ落ちる雨のように、温水が背中をすべる。臀部の曲線を越えて、雨滴の一部は足下を濡らし、残りの水流は丘の狭間へもぐりこんで行く。
その間に、浴槽に湯を満たした。
シャツもパンツも、湿気を帯びて不快だった。おれは、ポロシャツを頭から外した。どうせ洗濯するのだからと、隅にあった洗面器に放り込んだ。刺繍のペンギンが、ちょうど上を向いて着地していた。
ここまでくれば、木綿地の短パンも同じ運命だ。膝から足首へと一気に引き下ろし、後ろも見ずに放り投げた。
おれは、ミナコさんの肩に軽く触れ、シャワーをとりあげた。
「もう、温まったほうがいいよ」
実際、おれの体は夏とは思えない冷えを感じていた。ミナコさんがしていたように、おれも肩口にシャワーを当てた。水流が皮膚を刺激し、細胞が弾ける。胸から腹にかけての筋肉が反応し、下腹部にも力が漲るのを感じた。
(おっと・・)
おれが手で隠しかけたとき、ミナコさんの髪がいち早くおれを隠した。タイルの上に正座をし、おれに顔を押し付けて、思いの丈をしゃべりかけてくる。好きだ、好きだよ、ほんとうに辛かったんだから・・。おれの言葉なのか、ミナコさんの訴えなのか、区別がつかなくなっている。
おれは、天を仰ぎ、必死に会話を続けようとする。だが、コトバを超えた存在のやさしさに包まれ、おれは、そのやさしさの中で浮遊した。
おれの魂が、天空の海に溶け出していく。おれは、ミナコさんの肩に手を添えたまま、太腿に触れる髪の毛の感触が、くすぐったさに変わっていくのを、驚きの感覚で受け止めていた。
「うう、寒いよォ」
おれは、照れ隠しにその場で足踏みをした。もう一度シャワーを浴びてから、浴槽の縁を跨いだ。
大人ひとりが身を沈めれば、すぐにいっぱいになってしまう狭さである。その狭小さに変化を与えるアイデアが、ひらめいた。おれは、浴槽の中からミナコさんを呼んだ。手を差し出して、中に引き入れた。
後ろ向きに腰を落としてくるミナコさんを手で支え、背面からゆっくりと引き下ろした。
「温かいわ~」
ミナコさんの吃水線は、二の腕の半分までだ。水面から上に出た二つの島に、おれは手のひらで掬った温水をかける。
「ほんとに、寒くないの?」
うなずく頭が、おれの顎に当たる。それが可笑しくておれが笑うと、今度はおれの振動する腹筋が可笑しいといって、ミナコさんが笑い出す。
「顔を見せないで笑うのは、卑怯だよ」
もう、子供の遊びと一緒だった。
ミナコさんは、挑むように向きを変え、おれの胸に乗り上げてきた。圧力でつぶれた二つの乳房が、ショックアブソーバーのように体重を吸収する。
おれとの隙間に蓄えられた浮力を使って、おれは別の遊びを考え出す。ラッコになったり、アザラシになったり、体を入れ替え、向きを変え、互いをはぐらかしながら、はしゃぎあった。
浴槽の湯がぬるくなったのを機に、おれたちは遊びをやめた。
熱めのシャワーを浴びて、おれが先に浴室を出た。
豪雨はまだ続いていた。窓に近付いてみると、横殴りの雨が隣の屋根を滑り降り、いっそう加速した勢いでこちらの窓ガラスに襲い掛かった。
いまだに帯電したままの空が、時おり稲妻を走らせる。この華麗な雷ショウを、どれだけ多くの人が見ていることだろう。おれと同じように、それぞれの持つ悩みを一時棚上げにして、容赦ない自然の力に見とれているのだろうか。
おれは、ひときわ激しく闇を裂いた雷光を網膜に焼き付け、カーテンを閉じた。空気を震わしながら追いすがる雷鳴が、ちょうど浴室から出てきたミナコさんを迎え撃った。
「こわい・・」反射的に肩をすくめ、耳を押さえている。
「子供のころは、蚊帳の中に逃げ込めば安心できたのだけど・・」
おれは、部屋の中央に布団を延べて、ミナコさんを坐らせ、頭から掛け布団をかぶせた。
水分補給のためのバヤリースオレンジを用意し、電燈も消してカミナリが去るのを待つことにした。
おれも布団にもぐりこみ、膝をそろえて体を寄せ合う。呼吸が深くなり、心が安らいでくる。ミナコさんも、頭に布団をのせたまま、去来する思いを検証していたのかもしれない。
「わたし、東京で結婚して、東京で別れたのよ」
ミナコさんが、唐突に話し始めた。「・・二十歳から、二十二歳まで、大手の広告代理店に勤めているという男の言葉を信じて、同棲していたの」
ところが、その男は、甘言をならべて女をだますスケコマシだった。婚姻届まで出して真実を装う、始末の悪い男だったという。
ある日、亭主になったその男は、ミナコさんに泣きながら訴えた。
「実は、ぼくの不手際で、取引先の社長に莫大な損害を与えてしまった」と。とても返せるような金額じゃないので、「ぼくは、命をもって詫びを入れるつもりだ」
たいがいの女なら、その先も筋書き通りに運んだだろう。
だが、ミナコさんは、仕事上の失敗なら会社の責任ではないのかと、亭主が勤めるという広告代理店に掛け合いに行った。
「恥はかいたわよ。でも、あぶないところで泥沼にはまらなくて済んだの。だって、亭主の取引先というのは、いかがわしい芸能プロダクションで、初めからわたしをストリッパーにするつもりだったのよ」
(続く)
(2006/03/29より再掲)
密やかに燃える人間の切ないような瞬間の描写が何とも切なく美しく迫ってくる。
窪庭さんが描きたかったのはここだったのかもと思ったりして、、、
状況や立場は違っていても、誰にも生涯のいつか1,2度はこういう宝物のような瞬間が訪れるのではないかと想像しながら読ませていただきました。
ありがとうございます
長いラブストーリーの山場としてカミナリの力を借りながらギリギリの表現をさせていただきました。
<密やかに燃える人間の切ないような瞬間の描写が何とも切なく美しく迫ってくる>と評価していただき、この回がどう読まれたのか気になっていましたのでホッとしました。
おっしゃる通り<状況や立場は違っていても、誰にも生涯のいつか1,2度はこういう宝物のような瞬間が訪れるのではないか>と思いますので、命が燃えた瞬間を同期出来る(た〉とすれば本望です。
これからまだ予想外の展開が続きますので、どう収拾させるか検証が大変です。
いつも見守っていただき感謝しています。