マドンナが、その日のおやつのリクエストについて説明していた。
「・・・・私は、父を喜ばせたくて、背中を向けたままミルクレープを運びました。
ミルクレープには、一本だけ、小さなろうそくを立ててお祝いしました。
そのミルクレープの味が忘れられません。自分で作って言うのもなんですが、本当においしかったのです。
それに、なによりも嬉しかったのは、父が喜んでくれたことです。
あのミルクレープを、旅 . . . 本文を読む
雫さんが、マドンナのソフトマッサージを受けている時、こんなやり取りがあった。
「お父様には、お会いしなくてよろしいのですか?」
マドンナは、私の耳たぶの辺りを撫でながら、核心的な質問をする。
「いいんです。父には、病気のことも一切伝えていませんし、それに、もう何年も会っていないんです。父が今、幸せに暮らしてくれていたら、それで問題ありません」
「そうですか、雫さんがそうおっしゃるなら、それ . . . 本文を読む
前回は、音楽セラピーのカモメちゃんが、いろいろなスパイスをちりばめたような、複雑で奥深い声で歌唱する様子を伝えて終わった。
「次は子守唄メドレーなので、眠たくなったら、本当に眠っちゃってくださいね」
<眠りに落ちる寸前の場所で、私はカモメちゃんの歌を聞き続けた。甘く切ない歌声に抱っこされたまま、ほのかなまどろみを満喫していたかった。
カモメちゃんが、アコースティックギターから最後の音を解き放 . . . 本文を読む
ローカル鉄道に乗って、橋梁上の車両の窓から絶景ポイントを見たことはないだろうか。
ぼくは前回までに『ライオンのおやつ』がしつらえた、美しい風景をいくつか取り上げてきた。
風景の中には、ホスピスの代表であるマドンナのぬくもりが、雫さんの残り少ない命とひびき合った瞬間も含まれる。
また、狩野姉妹が用意する食事の絶妙さと、ゲストへの配慮も忘れがたい。
中でも、スタッフ全員が関わったであろうおやつ . . . 本文を読む
「雫さん、よく眠れましたか?」
翌朝、食堂へ向かうと、マドンナに声をかけられた。
「はい、本当にぐっすり眠れました。こんなに眠ったの、すっごく久しぶりです。」
「よかったです。さすが、天然ゴム百パーセントのラテックスマットですね。・・・・」
相変わらずの三日月アイで、マドンナが微笑む。
「眠ることは、重要です。・・・・」
<よく眠り、よく笑い、心と体を温かくすることが、幸せに生きること . . . 本文を読む
マドンナが去って一人になった雫さんは、自分の部屋の大きなベッドに倒れこむ。
<目を閉じても、まぶたを通して光が届いた。その光が、うるさいくらいに元気よく、サンバのリズムで踊っている。
「気持ちいい」
声に出すと、ますます気持ちよさが発酵する。両手を広げても、まだベッドの両端に余りがある。>
雫さんは、弾力のあるベッドで、布団に埋もれて眠ってしまいそうになりながら、不意に、昔付き合っていた人 . . . 本文を読む
マドンナが案内してくれた施設は、雫さんにとって拍子抜けするほど安心できる場所だった。
もっと病院っぽいか、もっと庶民的かどちらかを想像していたのに、まるで隠れ家ホテルにいるような、優雅な気分にさせてくれる空間だった。
<実際に入ったことはないけれど、繭の中というのは、こんな手触りの優しい光に包まれているのかもしれない。>
しかも、雫さんに用意されていたのは、窓から海が見える部屋だった。
< . . . 本文を読む
久しぶりに本を読んだ。
読んだといっても、読み終わったわけではない。
実は友人に薦められ、タイトルが気になっていた本をボチボチと読み始めたら、ふわ~と包み込まれてしまったのだ。
「ライオンのおやつ」って、いったい何だろう?
主食は生肉だろうから、おやつはサラミソーセージみたいなものかな。
ばかな想像をしながら、最初のページを開いた。
<海野雫様>という宛名の人への手紙だった。
送り主 . . . 本文を読む
スウェーデンの湖水
(ウェブ無料画像)より
落胆は半ばに道をそれ
苦悩も半ばに朽ち折れる
ハゲワシも飛ぶのをやめる
貪欲な光が差し入り
幽霊さえもよろめく
氷河期のアトリエに昼の光が差し
キャンバスの赤い野獣を照らす
全てが周りを見る
日を浴び 群衆の中を歩く
全ての人は半ば開いた扉
皆を部屋へといざなう
水は木々の間で光を放つ . . . 本文を読む
先般「身の丈に合った」という言葉が話題に上ったが、使い方を誤ると思いもかけない騒動に発展することがある。
その点、ロシア怪談集(沼野充義・編)の和訳は、しろうと判断でも的確な指示力を持っているように思われる。
曖昧さや不確かさが排除され、作者が描こうとするものが、たしかな存在感を伴って伝わってくる。
数多くの短編小説の中から、ゴーゴリ作・小平武訳『ヴィイ』 . . . 本文を読む
(宮本輝『幻の光』に見る文体の魅力)
ずっと前に読んで、いつか『幻の光』の魅力について書きたいなあと思っていたのだが、今日まで延びてしまった。
やっとこの作品に向き合う気持ちになったのは、自分にとってもいい傾向かなと内心喜んでいるところである。
ぼくは宮本輝の小説に出会って以来、彼が産みだす多くのことばに魅了されてきたが、今回もまた『幻の光』の文体にまず目が . . . 本文を読む
ガルシア・マルケスの処女作「落葉」(高見英一訳)は、これまでに味わったことのない深層からノックされるような感覚に満ちています。
ぼくの読後感から言えば、まるで船酔いのまま明け方を迎えた大島航路の三等船室風景のように、疲労と倦怠と安堵のなかで船底から突き上げるエンジン音を聞きながら横たわっているような気分です。
まず、序章から一部を引用して、船酔いを喚び起こ . . . 本文を読む
(あなたは何冊読みましたか)
世界の名著
(友人社刊)
1988年7月に友人社から出版されたこの本は、世界文学の名著100冊を選び出し、それぞれ見開き2ページで作品概要を解説する実にありがたい企画であった。
ほぼ30年前の本を持ち出して、今更なにをしようというのかと疑 . . . 本文を読む
作品集「霧の犬」を読んで
2014年11月23日、作品集『霧の犬』は鉄筆社創立記念特別書き下ろし小説として他の短篇3作とともに出版された。
先に書評風ポエムとしてぼくが取り上げた「カラスアゲハ」と、「アブザイレン」「まんげつ」などが所収されている。
上記短編小説は、比喩や象徴の多い表現に彩られてはいるが、一定のストーリー性があ . . . 本文を読む
(手塚治虫の光芒を間近にして)
2015年8月6日、手塚治虫の仕事ぶりをつぶさに見てきた著者が、一冊の本を上梓した、
タイトルの『鉄腕アトムの歌が聞こえる』~手塚治虫とその時代~は、まさにこの本の内容を包括していて、私的な感想を付け加える余地はほとんどない。
冒頭に挿入されている「鉄腕ア . . . 本文を読む