暗い中でドアノブに手をかけながら、もう一方の手で室内灯のスイッチを探していた。 「どなた?」 「あけて・・」紛れもないミナコさんの声だった。 玄関の、それほど高くもない天井の蛍光灯がパチパチと瞬いて点き、おれが押した鉄扉の隙間から、ミナコさんが転がりこんできた。 「どうしたの、こんな日に・・」 おれは、思わず手を差し伸べてミナコさんを抱きとめた。ポロシャツに短パン姿のおれの胸部に、ずぶぬれの . . . 本文を読む
夕方五時から、新宿区役所通りに面したレストランの一室を借り切って、イノウエと佐鳥さんの結婚披露パーティーが催された。 おれが会場となる部屋に入って、受付の女性に会費を払っていると、友人に囲まれて談笑していたイノウエがおれを見つけて近寄ってきた。 「やあ、おめでとう」 先手を打って、挨拶した。 「いやあ、うれしいです。忙しいところを来て頂いて、ほんとに申し分けなかったです」 イノウエは、ほん . . . 本文を読む
「ぼくは、何があっても別れないからね」
おれは、呟くように言った。
「わたしだって、あなただけなのよ」
ミナコさんも、眩しそうにおれを見返した。「・・覚えているかしら、わたしの顔を、まじまじと見てくれた日のこと。あの時、営業のひとと話をしていても、ポーッとして何も覚えてないのよ。わたし、あんなふうに見つめられたの初めてだから、もう気が飛んでしまって」
ミナコさんは、頬を上気させていた。
お . . . 本文を読む
東大安田講堂に立てこもった学生が排除されて以来、目標を見失った若者たちは、呆然とした思いで日を送っていたはずだ。放水という変幻自在の弾圧の前に、誇りをぐしゃぐしゃにされた学生たちは、拠って立つ抵抗原理まで濡れ鼠にされ、へたったダンボールとともに地に落とされた。銃で撃ちもせず、時計塔から飛び降りもさせなかった権力側の冷酷な計算が、いまになって明瞭に意識される。
一方、社会の底辺で隠者のごとく生き . . . 本文を読む
おれが、もっとましなアパートを借りたいと言うと、ミナコさんは一も二もなく賛成した。 もちろん、すぐに住居を変えることなど出来るはずはなく、おれも真剣に働いて早くそれを実現したいとの願望を述べただけだった。 ところが、ミナコさんは、来月にも引っ越しが出来るように、明日から部屋探しを始めようという。仕事の合間を縫って、おれを手助けしてくれるつもりらしい。 自動車内装会社の経理責任者として、また . . . 本文を読む
沸騰した薬缶の湯も、部屋に持ち帰リ急須に注ぐころには、ちょうど緑茶に適した温度になっているはずだ。おれは日常の経験をもとに、間合いを計る要領でゆっくりと部屋に戻った。
ミナコさんが後ろを振り返った。本箱に本を戻し、もう一度おれの手元に視線を向けた。
「あらあら、わたしが淹れましょうか」
「いえ、危ないからぼくがやります」
薬缶を小机の上に置き、金属製のトレイに伏せてある急須と湯飲みを据え直す . . . 本文を読む
ほどなくサンドイッチが運ばれてきた。野菜と生ハムを薄めのフランスパンに挟んだ、オリジナル商品だった。レタスもトマトも新鮮だったし、幾重にも巻いて花弁に見立てたハムは、塩と洋がらしと空気の弾力を味方にして、食べる者を幸せな気分にした。
カップが大きめだったせいか、残りのコーヒーがオリジナルサンドの味を引き立てた。ミナコさんも、たっぷりの紅茶で軽食の仕上げが出来、満足の表情を浮かべた。
ミナコさ . . . 本文を読む
ミナコさんとの逢瀬は、週に一回のペースで実現した。日曜日に、ミナコさんの好きな盛り場で、人混みに紛れて待ち合わせることが多かった。 梅の季節になって、湯島天神、六義園などの近場だけでなく、おれの希望で百草園まで足を伸ばしたりした。 おれは、口にこそ出さなかったが、ミナコさんの住むマンションに近付けないことにストレスを感じていた。自分自身の心理的な抑制がそうさせるのだが、それが苛立ちとなってお . . . 本文を読む
おれは、ミナコさんの脚の間に片膝をつき、斜めに体を重ねた。すべるような白さに見えた肌が、ずり上がっていくおれの腹に吸い付いてきた。
腕の付け根に口をつけ、そこから首筋へと位置をずらした。顎の裏側にもぐりこむと、ミナコさんはのけぞったまま声をあげた。
おれの中に、得体のしれない男の影が忍び入ってきた。大塚の飲食店街からアパートに戻る途中、暗がりの道で売りつけられたエロ写真の男だったろうか。
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おれたちは靖国通りから逸れて、坂の道を新宿御苑方向へ登っていった。途中大きな交差点を渡り、人気の少ない裏通りに足を踏み入れていた。
中層のビルや医院、住宅、学校などが混在する街は、二つの大通りに挟まれてひっそりと静まっていた。街灯はあっても、建物に遮られて随所に影が生まれている。不穏な気配さえ感じられなくはない。
おれの腕にかかる重さが増していた。坂を登って来て、ミナコさんも疲れたのだろう。 . . . 本文を読む
駅の改札口から、会社帰りの男女がひっきりなしに吐き出されてくる。この界隈から帰っていく人びともいるわけだが、おれの目はこの駅に降り立つ者だけに向いている。 女性の姿に意識が向かうのも、同じ理由だ。ミナコさんの面影に似た横顔を見つけてハッとし、いや、そんなに早く来られるはずがないと、はやる気持ちをたしなめる。 その間にも人の流れはやまず、おれの注意力はつかの間散漫になる。ただぼんやりと駅頭の風 . . . 本文を読む