坂部留吉は、タクシー運転手をしている。 高崎市の繁華街にある営業所で、かれこれ十年近く流しを続けている。 東京で八年ほどサラリーマン生活を経験したが、ちょっとしたトラブルがもとで会社を辞めた。タクシー会社に勤めたのはその後だから、すでに四十歳になろうとしていた。 一度結婚はしたが、転職を機に離婚した。ギャンブル好きがトラブルの原因だから、女房に逃げられたといった方が当たっている。 日々の . . . 本文を読む
山荘の森に隣接する農家のミツバチが、クマに襲われたとの噂が流れてきた。
趣味で始めた養蜂が嵩じて本格的になり、数年間分封を繰り返して、けっこう大掛かりに箱を並べる有力養蜂家になったところを、若い世間知らずのクマに狙われたという話だった。
クマは、家人に発見されても、なお掌を舐めていたとのことで、通報によって出動した地元猟友会の手によって、たちまち仕留められた。
この年は山の実りが薄く、木の . . . 本文を読む
店内はまだ空いていた。あと二十分もすれば、近くの食堂で昼食を済ませた客で混んでくるはずだった。 真木男は、壁に貼られた軽食のメニューを見つけて、向かいの席の保健所職員に勧めてみた。 「せっかくの食事時間を取ってしまって、申し訳ありません。よろしかったら、何か召し上がりませんか」 「どうしようかなあ・・・・」若い男は、迷ったように視線を泳がせた。きょう食べようと思い描いていたメニューと相当の開き . . . 本文を読む
真木男は、職員用の駐車場と思われる辺りを目で探ったが、人影はなかった。
自動車が数台停まっていて、その中の一台が見覚えのある黒の軽自動車であることに気が付いた。
「あの男って、もしかして・・・・」
「そうよ、リュウちゃんのお父さんよ。丸刈り頭の後ろ姿で分かったけれど、もう居ないでしょう?」
「うん、誰も居ないよ」
「じゃあ、通用口から入ったんだわ。アブナイ、アブナイ」
その場に留まっていると . . . 本文を読む
白い犬からは、精気が失われていた。毛色も白というより、脂が抜けて灰色がかって見えた。 早春の張り詰めた空気を払いのけて、とつじょ現れた日のリュウの躍動が嘘のようだ。 野生の残る純粋さが、媚びない気品を感じさせたものだ。 その時の子犬が、いま打ちひしがれた姿で目の前にいる。檻に囚われた罪人のように、記憶を探る気力も萎えた顔で立っている。 真木男は、リュウを救い出せない自分の非力に、落胆して . . . 本文を読む