無断欠勤をニ週間続けたころ、自動車内装会社から解雇通知と給料が送られてきた。わずかだが、社内規程による一時金が付加されていた。
現金書留の封筒の中に、ミナコさんからのメッセージが忍び込ませてあった。
<落ち着いたら、顔をみせてね。電話してからよ>
おれが逃げ帰ったあと、どんな顛末になったのか。少なくとも、おれが訪問したことだけはミナコさんに伝わっているようだった。
社長の追及に、ミナコさ . . . 本文を読む
昼休みの早指し将棋に、おれの出番が多くなった。
ゴトウさんが、おれのことを実力以上に吹聴するものだから、社員はおろか社長まで様子を見に来るようになった。
何日か前のこと、横に立った長身の男の圧迫感に耐えられず、おれは身じろぎしながら振り仰いだ。その瞬間、薄ら笑いを浮かべた社長の視線が、おれからゆっくりと放れていった。
理由は分からないが、おれは嫌われているなと直感した。おれの何かが癇に障っ . . . 本文を読む
ヨシモトは、まだインドにいるのだろうか。地球が回る音を聴くことはできたのだろうか。 彼が去って、もう五年は経ったはずだ。その間、おれは転職を繰り返し、そのたびに薄汚れていったような気がする。 ヨシモトが身近にいれば、おれの生き方も少しは変わっていたかもしれない。大学の道場の片隅で、彼とともに瞑想し、「あ、うん」の呼吸で宇宙と一体になることができたのだから。 「あ、え、い、お、う~」 心と身 . . . 本文を読む
この密かな儀式のような瞬間を、もうどれほど繰り返してきたことだろう。食欲と性欲が渾然となって意識される、至福の一刻を。
おれは、おれだけに与えられた豊饒の感覚を崇めて、大それた発見でもしたかのように陶酔していた。白菜がみせる裸身の美しさに、たったひとり美を見出すことのできる自分の感性に、自負を抱いていたということだ。
しかし、いつまでも悦びに浸ってはいられなかった。空腹にせかされ、アルミ鍋と . . . 本文を読む
夜中に、一度目が覚めた。
おれは押入れを出て、廊下の突き当たりにある共同トイレに向かった。
トイレと背中合わせに設置された炊事場も、明かりを落として静まり返っている。こうして水場を一箇所にまとめた作りは、住人の感情さえ斟酌しなければ合理的なのかもしれなかった。
ともあれ、おれが通ってきた廊下を挟んで左右に五部屋ずつ並んだ三畳間は、どの部屋も電気が消えていた。最近引っ越していった一部屋を除い . . . 本文を読む
その夜、おれは大塚駅南口のジンギスカン料理店で、ビール一本と慣れない日本酒を飲んだ。お銚子にして二本の二級酒は、あまりうまいとは思えなかった。それでも、目の前で湯気まじりの煙を上げはじめた羊肉をほおばりながら、久しぶりの脂の味を酒で流し込んだ。 どんな境遇に置かれても、その場その時の悦びはあるものだ。 おれは、まだ熱をもったまま食道を下り、胃のなかに落ちていく咀嚼物を、おれの細胞が先を争って . . . 本文を読む
喫茶店での会話は、戦勝祝いのように沸騰した。
おれは、いきり立つ若者たちの言葉を、ボックス席の底で他人ごとのように聞き流していた。
おれの頭の中に、労働基準監督署の存在が浮かんだ。どれほどの力を与えてくれるものか見当もつかなかったが、諦めの思いの中で微かに点滅しはじめた希望のようなものを、若者たちに示した。
反応は、予想を超えた。
おれは、おれを称える若者たちの言葉に心をくすぐられたが、 . . . 本文を読む
夏草の生い茂ったなだらかな丘のふもとに、いつの時代のものか、発かれた石棺が陽に曝されているのを見たことがある。
型枠のように草根を支えた石室の奥に、濃い暗闇が潜んでいた。伊豆の下田から石廊崎に向かうバスの中であった。
丘は一筋に延びる舗装道路を境にして、二つの盛り上がる量感となり、前部の座席にいたおれを呼び寄せるように輝いていた。
変わりやすいこのあたりの天候が、一刻の驟雨の後にもたらした . . . 本文を読む
昭和という時代を懐かしむつもりは無い。 ただ、昭和を生きてきて、その影響を受けたことは事実である。 わたしは、齢をかさねるごとに、自分が通り抜けてきた時代を振り返ってみる。 青春時代、壮年時代、どの一日を切り取ってみても、いま老年期を生きる自分と どこかでつながっている。 その意味で、自分という存在は、時代の鏡である。 だが、時代は自分だけの鏡では無い。 <おれ>という主人公を鏡にし . . . 本文を読む
『悪童狩り』が、終わりました。
短編なので、直接ブログに書きましたが、原稿用紙を使わずに進めるのは初めての経験だったので、ちょっとドキドキしました。
お読みいただいた方、コメントを下さった方、本当にありがとうございました。
さて、今回のテイータイムは、『雨の日のネコはとことん眠い』(PHP研究所)を紹介します。
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立ち入り禁止のロープを跨いだ瞬間、草に滑ってわずかに体が揺らいだ。 ステッキでバランスをとり、なにごとも無かったように姿勢を戻した。気付かれたかどうか、少年たちの表情を確かめたい誘惑に抗して、数馬は次の一歩を踏み出した。 築山の傾斜は、眺めていたのと違ってかなりの険しさを秘めていた。 日ごろの散歩で、それなりの自信を付けていたはずだが、彼の自負も体と一緒に揺らいでいた。 杖を先導に、前傾 . . . 本文を読む
立ち入り禁止の柵に沿って築山を半周すると、裏側に隠れた少年たちの動向が分かりそうだった。
数馬は、いつになくゆっくりと足を運びながら、自分の気持ちがいささかの方向性を持つのを待った。
いまはまだ、道がそこへ向かっているから進んでいるだけだ。言ってみれば、道の意思だ。
まもなく道は築山にぶつかり、右に大きく曲がる。そこから左回りの円を描きながら、ロープに沿って丘の裏側に回りこむか、途中から分 . . . 本文を読む