(微量の恨み)
その夏椿は、急に葉を散らしはじめた。
大学構内の仕切られた一角にある、シンボル的な樹であった。
昭和二十年代に植えられ、今では樹高十数メートルに成長している。
手のかかる種類の樹木ではあるが、季節外れの落葉は思いもかけない出来事であった。
夏椿は、別名シャラノキ(娑羅樹)という。
お釈迦様となじみの深い娑羅双樹に名を借りているが、熱帯性のそれと . . . 本文を読む
(ルッソーからの招待状)
ゴーギャン様、いつぞやは私の肖像画に対して過分のお褒めを頂きましたそうで感激しています。
伝え聞くところでは「これが本当だ! 未来! これが絵画の真髄なのだ!」と言ってくださったとか。
日頃、遠近法も知らない素人画家とか日曜画家とか呼ばれていた私にとっては至福の瞬間でした。
ピカソ様からも折々に励ましの言葉を頂きましたが、実社会で働いてい . . . 本文を読む
(速すぎた手紙)
梨絵は、大好きなおじいちゃんに宛てて手紙を書いた。
「はやく元気になって、また碁ならべしようよ・・・・」
黒の碁石を握り締めて、おじいちゃんと戦った日のことが思い出に残っていた。
そのおじいちゃんの具合が悪いと聞いて、励まそうと思いついた。
電話をかけてもいいかとママに確かめたら、わざわざ呼び出すのは駄目と言われた。
(じゃあ、手紙を書こう・ . . . 本文を読む
(河童のにおい)
河童のにおいは生臭かった。
鼻の奥に仕舞われた記憶が、十五年の月日を越えてよみがえった。
思い出したくもない出来事が、臭いとともに引き出された。
駅構内でぼんやりと時刻表示を眺める男は、たしかにあのときの男だった。
初老になって額が広くなっているが、目の縁が爛れたような顔に見覚えがあった。
何よりも、すれ違った男の体臭は、草むらから立ち去った . . . 本文を読む
(振り返る虫)
母の遺品の中から、ビニール袋に入った源太の絵日記が出てきた。
小学三年生の夏休みを、志賀高原で過ごしたときのものだった。
ひと夏を丸池近くの貸別荘で寝起きし、同い年のプロパンガス屋の息子と森の中を探検した。
名前は一平といい、人懐っこい子供だった。
来る日も来る日も晴天続きであったことが、絵日記上部のお天気欄に残されている。
夕方から雷雨がやって . . . 本文を読む