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さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

生き方の美学 ~フローベンと、ある江戸っ子の話

2013年02月08日 | らくがき

 十六世紀の初め頃、スイスのバーゼルに、エラスムスの本を主に出版していたフローベンという書店商がいました。エラスムスはそのフローベンをとても信頼していて、ある人に「彼はひとりでいるときでも正直だ」と言いました。信仰心篤いキリスト教信者である賢人の言葉として、極めて興味深い言葉ではありませんか。

 かの名著である「痴愚神礼賛」の論理と同様に、この言葉を鋭い風刺ととれば、ほとんどの人間はひとりでいるときには不正直なものである、という性悪説的な解釈ができます。「汝の敵を愛せ」と言ったキリストと同様に(敵は必ずいたる所にいるものだ)、エラスムスはシニカルなリアリストであったのです。

 ここで私が突然連想するのは、ある江戸っ子の言葉です。その男は死ぬ間際に、「ああ、一度でいいから、蕎麦をたっぷり汁につけて食べたかった」と言った話です。御存知生粋の江戸っ子は、ざる蕎麦を食べるとき、ほんの少ししか蕎麦を汁につけずに食べるのが粋だと考えたのです。蕎麦をべちゃべちゃとつけ汁の中で泳がせてすするのは野暮なのです。この男は、生涯蕎麦をたっぷりとつけ汁につけて食べたことがなかったのでしょう。普通の人間なら「バカだなあ、ひとりでいるときに、たっぷりつけて食べればよかったじゃないか」と思うかもしれません。

 その男にとって重要だったのは、彼の味覚を満足させるより、粋な人生を貫くこと、すなわち江戸っ子としてのアイデンティティだったのです。人が見ていなくても、無粋なことはしたくない、してしまえば自分が許せない。それは徹底したひとつの生き方の美学と言えましょう。

 さて、「ひとりでいるときも正直」であった書店商のフローベンには、そのような生き方の美学があったのでしょうか。ひとつには商人として、見えないところの誤魔化しで小さな利益を得るより、信頼を得るほうが大きな利益になるという、経済的打算があったとみる見方もあります。しかし忘れてならないのはキリスト教徒には、まわりに見ている人間がいなくても、常にその人間を見ている目があるということです。それは神の目です。信仰心篤いキリスト教信者にとって、不正直を神の目から逃れる術はありません。エラスムスはフローベンに、他にはなかなか見い出し難い、誠実な信仰を認めたのではないでしょうか。エラスムスから見て、フローベンは天に徳を積み、必ずや晴れて天国に行くのです。

 しかしかの江戸っ子には、おそらくすべてをお見通しの神様はいなかったでしょう。そもそも蕎麦をたっぷり汁につけようが、少しも悪いことではないし、だからといって地獄に落ちるわけでもありません。彼にとって絶対的価値があったのは、「粋に見える」ことではなく、「粋であること」であり、彼は生涯をかけて、その理想の生き様をまっとうしたと言えるでしょう。私はそのような姿勢に感動するのです。

 しかし惜しまれるのは、その生涯の最後に「後悔」してしまったことであり、さらにはそれを言葉にしてしまったことです。それって、何より無粋ではないですかねェ