続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

意味と無意味。

2011-07-12 06:59:49 | 美術ノート
 アバンギャルド・・・前衛。
 意味を廃する、除外する。

 人は意味を探しがちである。それはむしろ本能と言ってもいい。点が三つあれば人の顔を想起するというように。

 そこで人は「無」という事を考える、概念の消去・・・。

 神奈川県立近代美術館葉山での佐藤忠男先生の講義(7月9日)のなかで「雨ばかりを撮る作家がいました・・・」と言う話があったけれど、60年代、それは流行と言うよりも、むしろ思考の必然的なプロセスであって、通り抜けねばならない過程だったように思う。

 あの無意味への偏執的な追及があって『ゆえに・・・』が導かれる。

 ただ『無』を追求するあまり、本質を置き去りにしてしまう不都合が生じて、飽きるというよりは、完全な『無への追求』を断念してしまう。『完全な無』というものが存在しないからである。

 作家は矛盾を感じながらも無を追及した自身の意味を問うようになり、沈黙せざるを得なくなる。

 意味は世界中に溢れている・・・けれど無意味は簡単には姿を現さない。それは意味の要壁に包囲されているからで想念の上では存在するかもしれないが、存在しないから無意味だと換言できなくもない。

 かつて斉藤義重は『鬼』という作品を描いたけれど、あの赤色にさえ、意味は主張しているのである。赤と黒、その形体・・・長方形の平面、その余白。

 ギリギリのところで人は発見する。見えなかったものを見る!

 徹底的な無への執着は、その眼力を促す。
 無意味こそ世界への最大の架け橋となる。肯定、否定、大いなる肯定・・・。

『風の又三郎』42。

2011-07-12 06:40:02 | 宮沢賢治
そのとき先生が入って来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり一郎がいちばんうしろで「礼」と云ひました。

☆そのとき先生(たくさんの星)が入って来ましたので、みんなもさわぎながらとにかく絶ちあがり宇宙的存在が宇宙の有心(思慮)で、「霊」と言いました。

『城』538。

2011-07-12 06:21:00 | カフカ覚書
このことは、彼が話をしているときはあくまで使用人(おまけに、フリーダときたら、まったく横着きわまる使用人なのだが)にたいする雇い主という態度をくずさないだけに、よけい眼につくのであった。

 allem→alle/尽きて。
 fiel・・・fallen/死ぬ。
 使用人/arbeitgeber→alibi/現場不在。
 使用人/angestellten→ungestalt/おさまらない怒り。

☆それゆえ尽きて死ぬ、にもかかわらず話題は現場不在に対して終わらない。存在に対する先祖のおさまらない怒り。それゆえ先祖の大胆なおさまらない怒りに対する先祖の争い。