続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

救急車。

2011-08-29 10:13:43 | 日常
 九時十分・・・救急車のサイレンが近づいたかと思ったら至近距離で停止。

 Eさん宅の前・・・急いで外に出て見ると、息子さんが
「母の意識がないんです、呼んでも反応が帰ってこないんです」という。

 確か金曜日の夕方退院して来たはず・・・。
 隣家のH0さんも出ていたので聞いてみると、
「『おふくろ、おふくろ!』って聞こえたわ、野菜ジュース飲むのかとか何とか・・・」と。

 運ばれていく顔だけでも見たいと思って前に出てしまった。
「どいてください!」「・・・(申し訳ありません)

「すみませんさっきは緊急事態だったもんで」と、消防車の人。
 
 タンカーに乗せられた彼女の頬には一筋涙のあとが見えた。
 息子さんの不甲斐ない介護・・・何か生きる気力を喪失してしまったような・・・。

 早く良くなって!



 わたしも子供は息子だけ・・・いつか息子に不自由な身体をなじられたり、怒鳴られたり、したり顔で説教されながら床に就く日が来るのだろうか・・・。

Lee.Uhan.

2011-08-29 06:42:50 | 美術ノート
 昨日『新日曜美術館』で、Lee.Uhan.のニューヨーク展を紹介していた。あんなふうに会場全体を映していた画面を見てハッと気づいたことがある。

 そうだ、Lee氏は「もの派」とか言われていたけど、視点は物に有ったのではなく、物を凝視することで、あたりの空間の在り様を見せていたのだ。
 空間(見えないもの、無いもの)を見せることは、不可能である。その不可能を可能にする形、距離感・・・ヒューマンスケールでの体感を自分(作家としての眼)を通して厳密に計っていたに違いない。

 空気を読む、体感する、空気が変形することを鑑賞者に凝視して実感してほしかったのではないか。
 至近距離でもダメだし、遠すぎる傍観でもダメである。それを見る、発見する距離を鑑賞者自身が鋭敏に把握することが、Lee氏の作品の鑑賞姿勢なのだと思う。
 絵画作品を鑑賞するという受身では見えてこない作家の本髄。あくまで鑑賞者の能動的な発見をこそ望むべき作品の配置であることをTVの画面に気づかせてもらった。

 立体作品、二次元での作品・・・今回のニューヨークでの仕事は更なる緊張、緊迫が・・・見ることの昇華とでも言うべき抽象的な厳密を垣間見た気がする。

『風の又三郎』88。

2011-08-29 06:36:20 | 宮沢賢治
又三郎はちょっと具合が悪いやうにそこにつっ立ってゐましたがまた運動場をもう一度見まはしました。

☆幽(死者の世界)の太陽は、業(善悪すべての行為、又それが将来に及ぼす影響、どうにもならない心の動き)のけがれに慄(おそれおののく)
 幽(死者の世界)は云わ場、道場であり、逸/逃げたなら、渡(対岸に行くこと)は厳しい。

『城』583。

2011-08-29 06:11:41 | カフカ覚書
しばらく姿の見えなかったフリーダが、やがて下着類の小さな包みをかかえてもどってきた。オルガは、悲しそうに脇にさがった。

 下着類/waschehundel→wunsch Bundel/願望、光線。
 小さな/kleinen→klann/氏族。

☆しばらく消失していたフリーダが氏族の願望である光線(ビーム)を後戻りさせた。オルガは悲しそうに脇にさがった。