年中片付け物をしている。片付けても片付けても終ることなく続く片付けという作業。
(どうしてこんなに物が増え、家中に塵や埃が蓄積されていくのだろう)と考え込んでしまう。
《生きている証拠》だと短絡的に考えることは出来る。しかし・・・。
日常の感覚の変化・・・喜怒哀楽。喜と楽に関しては浮かれがちであり、怒と哀に関しては深く沈みがちである。その落差に起因しているのではないか。つまり、過ぎていく日々のなかで購入し求める物は意識の中でも無意識や衝動に近い領域にあり、片付けなければという作業には強い意識的な責務が伴う。
意識と無意識の相違が片付けという作業を重くしている。
プラス・マイナス=ゼロの感覚。
《昨日の何も無かった部屋》に戻すという意識を持てば、片付けるといういかにも面倒な負の感覚には到らない。
日々積み重ねられていく雑多な物は最初から雑多ではなく、思い入れのある執着物なので時間の経過を待たなければ、雑多という部類に移行しない。条理では片付けられない日常・・・不条理こそが不要物の蓄積、片付けの根源かもしれない。
(どうしてこんなに物が増え、家中に塵や埃が蓄積されていくのだろう)と考え込んでしまう。
《生きている証拠》だと短絡的に考えることは出来る。しかし・・・。
日常の感覚の変化・・・喜怒哀楽。喜と楽に関しては浮かれがちであり、怒と哀に関しては深く沈みがちである。その落差に起因しているのではないか。つまり、過ぎていく日々のなかで購入し求める物は意識の中でも無意識や衝動に近い領域にあり、片付けなければという作業には強い意識的な責務が伴う。
意識と無意識の相違が片付けという作業を重くしている。
プラス・マイナス=ゼロの感覚。
《昨日の何も無かった部屋》に戻すという意識を持てば、片付けるといういかにも面倒な負の感覚には到らない。
日々積み重ねられていく雑多な物は最初から雑多ではなく、思い入れのある執着物なので時間の経過を待たなければ、雑多という部類に移行しない。条理では片付けられない日常・・・不条理こそが不要物の蓄積、片付けの根源かもしれない。