わたしのところは、公園墓地に近いのでお彼岸の頃にはかなりの人たちが行き交う。天気のいい日などは散歩がてらという感じでごく気楽に楽しそうな風情さえ感じる。
ふと、見るということは見られているということでもあることに気づく。
(あら、まだ来てないのね)という人の眼が怖いので、必ず二日ほど前には花とお線香を持参してお参りに行く。
つくづく人の眼に助けられている。
もし人の眼がなかったら・・・わたしの生来のだらしなさから推し量ると、お墓や仏壇を粗末にするのではないかとも思う。
「お父さん、お母さん。逢いに来ましたよ」という感慨より、行かねばならないという義務感が先行するようでは人として失格でだし、何より恥ずかしい心根。
自分の中の薄い人情を思うとき、何かひどく自身が哀れになる。
二人の息子には「お母さんが死んでも泣かなくていいよ。お母さん、いつ死んでもいいと思っているし、後悔もない。死んだら一刻も早く忘れてね」と言ってある。
わたしのDNAを継ぐ息子たち、やっぱり人の眼を気にして・・・気にしなくていいからね。(どうしてこんなに淋しい考えになってしまったんだろう)
人の眼に助けられ、普通の顔を装っているわたし。
ふと、見るということは見られているということでもあることに気づく。
(あら、まだ来てないのね)という人の眼が怖いので、必ず二日ほど前には花とお線香を持参してお参りに行く。
つくづく人の眼に助けられている。
もし人の眼がなかったら・・・わたしの生来のだらしなさから推し量ると、お墓や仏壇を粗末にするのではないかとも思う。
「お父さん、お母さん。逢いに来ましたよ」という感慨より、行かねばならないという義務感が先行するようでは人として失格でだし、何より恥ずかしい心根。
自分の中の薄い人情を思うとき、何かひどく自身が哀れになる。
二人の息子には「お母さんが死んでも泣かなくていいよ。お母さん、いつ死んでもいいと思っているし、後悔もない。死んだら一刻も早く忘れてね」と言ってある。
わたしのDNAを継ぐ息子たち、やっぱり人の眼を気にして・・・気にしなくていいからね。(どうしてこんなに淋しい考えになってしまったんだろう)
人の眼に助けられ、普通の顔を装っているわたし。