続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

昨日と今日。

2015-01-03 06:14:23 | 日常
 今日は昨日の続きであり、いわば反復された永遠の昨日である。ちっとも変らない、惰性が左右する日々の連続。これを平穏と甘受するのは堕落への急降下かもしれない。
 そういう日々を疑いもなく生きている。そうしてここまで年を重ねてきたわたし、何を今さら・・・確かに!

 それでも、精神の革新、新しさへの挑戦・・・自分を変えることへの少なからざる願望。本当の自分探し・・・ずっと探し続けている自分らしさ。
 《明日こそは》と、すべての力を抜く就寝時には願望が過ぎらないこともない。
 
 
 何かの衝撃、他力本願・・・ああ、こんなことを言っているから複製された日々が積み重なってまるで何事もなかったような平板な薄い日常へと流されて行くのに違いない。
 自分の中のもっと奥深い所への問いかけを聞きたい。上滑りなごくお気楽な感想を持って終る一日に慣れ切っている感性の堕落。
 最初から低い位置で奮闘しているだけかもしれない。高望みの失笑・・・(頭を冷やせよ)

(今日が昨日より発想豊かな充実した時間の集積になりますように!)などと願うのは単に妄想に過ぎない。じたばたしているわたし、自分というものが見えない。

 自分が空虚な軽い人間だと気づかないことは、むしろ幸福かもしれない。何かあると思ってじたばた探している滑稽。

「あなた毎日(暇そうで)何をしているの?」と聞かれることがある。「別に・・・ただ何となく」と口ごもる67才の初老。
 虚しい健闘、浮世の馬鹿たるわたし・・・。

《人生とはそういうもの》と肯定してしまえば問題は生じない。競走することなく、争うことなく、ただ呆けたように笑っているわたし・・・今日の自分を責めるな苛めるなと、もう一人のわたしが言っている。

『まなづるとダァリヤ』21。

2015-01-03 05:56:38 | 宮沢賢治
「ほんたうに眼もさめるやうなのよ。あの梨の木まであなたの光が行ってますわ。」
「えゝ、それはさうよ。だってつまらないわ。誰もまだあたしを女王さまだとは云はないんだから。」
 そこで黄色なダァリヤは、さびしく顔を見合わせて、それから西の群青の山脈にその大きな瞳をなげました。


☆含まれる理(物事の筋道)は黙っている。講(はなし)の案(下書き)がある。
 推しはかると、叙べている奥(奥深い所)の運(めぐりあわせ)がある。
 講(話)の私記には信仰が現れる。
 号(しるし)の差異、群(同類の者が集まる)の章(文章)は、太陽に脈(つづく)題(テーマ)があり、等(平等)を問うている。

『城』1839。

2015-01-03 05:51:25 | カフカ覚書
医者たちが成功しなかったことで、自分がやってみてうまくいった例がすくなくない。故郷にいたころは、自分の治療が効果があるというので、いつもみなから<苦菜さん>と呼ばれていたくらいだ。


☆拘留を訴えなかったことでうわさになったことが少なくない。故郷では<苦しい氏族>と呼ばれていたくらいだ。