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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

自分を生きる。

2015-01-05 06:51:55 | 日常
 いつの時も自分というものが無いわたし。人が白と言えば白であり黒と言えば黒でもいいわ、というように追随してしまう。自分の意見というものを主張することがない。つまりはトラブルに巻き込まれるという災難を極力避けている。

 わたし自身を誹謗されても(そうね、それでいいわ)と言い返すことなく涙を呑む。

 だからと言って、もちろんそんなにいい人間でもない、中途半端に不満を抱え、過ぎる悔しさに自分を嗤ったこともある。けれど、それまでである。相手に対向し反対意見を述べるなんていう気力も頭もなく黙している。


 ただ、自分の意見なんていうものがあったのだろうかと考える。その場その場の雰囲気の中でうまく取り繕ってきただけで、呆然と事の成り行きを、まるで他人事のように眺めている(渦中の)わたしという感じだったような気がする。
《わたし》はどこにいるのだろう。空虚な人間が目も空ろにわたしらしさを装っているに過ぎない。わたしという人間に執着心を持てず、むしろ持てあましている感もなくはない。

 実に滑稽である。まったく胡散臭い。
 いつの時も他人思考に頷いて、(この人は自分の意見というものがないのかしら?)と疑惑を持たれかねないほどの消極的な態度。謙虚などという高尚さはなく、ただボオーッとしている。


 ずうーっと、そうだった。何故か? 精神的にも物理的にも貧しかったからである。消え入りたい自分だったからに相違ない。
 何時までも、今でも、その自分を引きずっている。

 孤独なわたし・・・孤独でいいと近頃は思う、それが《わたし》なのだと。
 しかし、《そうだろうか》と反問する。
 
《そうなのだ》とわたしの中で反響/こだまする空虚、木枯らしのような寒々とした光景。
《それでいいのか?》わたしの中に聞こえる声。

 迷いつつ、それでも《自分を生きる》より他の道はない。

『まなづるとダァリヤ』23。

2015-01-05 06:42:30 | 宮沢賢治
「まなづるさん。あたし今夜どう見えて?」
「さあ、大したもんですね。けれどももう大分くらいからな。」
 まなづるはそして向ふの沼の岸を通ってあの白いダァリヤに云ひました。
「今晩は、いゝお晩ですね。」


☆襟(胸の中)也。
 兼ねた他意を題(テーマ)にした文の講(はなし)である。
 照(あまねく光があたる=平等)への願いを二つで吐く(言う)運(めぐりあわせ)が混じっている。
 万(すべて)番(代わる代わる行う)である。

『城』1841。

2015-01-05 06:06:34 | カフカ覚書
 この申し出を聞いて、ハンスの眼は、最初うれしそうにかがやいたので、Kは、おもわず図にのってしまった。しかし、その成果は、残念ながら不満足なものであった。というのは、手を変え品を変えてたずねてみても、ハンスは、母はいたわってあげなくてはならないから、よその人が訪ねてきては困るんです。と答えるだけで、べつに残念そうな様子さえみせなかったからである。


☆この申し出を聞いてハンス(国/団体)の機関の禁錮は自明であるので、Kはおもわず惑わされてしまった。しかしその結果は不満足なものであった。というのはいろいろ訪ねてみても、母なるものへは予言者の寛大さがあり、小舟でよその人が訪ねてくることも許されており、先祖の汚点は予言者にとって悲痛なものではないというのだった。