続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

セザンヌ『リンゴのある静物』

2015-01-07 06:06:55 | 美術ノート
 芸と術の絵画/十選で、篠田正治が選んだセザンヌ『リンゴのある静物』を見て、オヤッと思った。

 これは明らかに妙である。不自然であるのに収まっている。リンゴは転げ落ちるとしか思えないのに静止している。鑑賞者にはそれを無意識に食い止めようとする心理的ムーブメントがある。吊り上げられたカーテンは上方へ引く力を示して、リンゴの落下エネルギーを消している。重く厚い布地の持つ重量ある物体を引き上げる力は見えないが鑑賞者は経験上それを知っている。
 上へのエネルギーと下へのエネルギーの相殺・・・否、むしろリンゴの落下エネルギーを凌駕しているかもしれないボリューム感あるものを引き上げるエネルギーの予測(描かれていないので鑑賞者には見えない)を潜在的に感じてしまう。。

 リンゴを乗せた高台の器や水入れの器は画面中央に直立している。鑑賞者は、その存在に安堵する。
《この対象物たちは有るべくして有るのだ》と。
 ここではベクトルの心理的均衡が成就している。鋭い洞察の下の計算は鑑賞者を不安がらせず、納得させてしまう。にもかかわらず、鑑賞者は潜在意識の中で大きく揺さぶられるか何を感じざるを得ない。図られたエネルギーの世界に作品を凝視するけれど、簡単にはその隠蔽された意図は表れない。何故なら、作品は絵画の常識としての観点を裏切っていないからである。


 そして考える、もし、このテーブルを山だと思えば、すべて解決してしまうことに気づく。リンゴは人であり器は建築物であれば、何の不思議もないことを。(リンゴは丸い、その形態から人を想起することは遠い。故にリンゴなのである)
 山に登る人々の光景、聳え立つ建築物、カーテンは雲であり宙であると置き換えれば、疑問は消失してしまう。観念と存在の根本的な混沌を解く謎のような作品である。(日経新聞/1月6日付け)

『まなづるとダァリヤ』25。

2015-01-07 06:00:23 | 宮沢賢治
「ほんたうにいらいらするってないわ。今朝はあたしはどんなに見えてゐるの。」
 一つの黄色のダァリヤが、おづおづしながら云ひました。

 今朝はコウウ・チョウと読んで、混、丁。
 見えてはゲンと読んで、現。
 一つはイツと読んで、逸。
 黄色はコウ・シキと読んで、講、私記。
 云ひましたはウンと読んで、運。


☆混ざったものを聴(注意深く聞く)と、現れる逸(隠れた)講(はなし)の私記を運/めぐらせている。

『城』1843。

2015-01-07 05:53:57 | カフカ覚書
ところが、父のほうは、あのときあなたにひどく腹をたてていました。だから、父はあなたが母をお訪ねくださることをけっして許さないでしょう。それどころか、父は、あんんんあたの態度のことで、あなたをさがしだしてとっちめようとまでしたのですが、母がそれを思いとどまらせたのです。


☆ところが、父のほうは、当時予言者に腹を立てていました。だから、父はあなたが母を訪ねたということを決して許さないでしょう。それどころか、父はあなたの存在を探し出して罰しようとしたのですが、母がそれを引きとめたのです。