福岡伸一の連載『芸術と科学のあいだ』を読んでいる。「見えない光の記憶 ありありと」の項には全く同感(日経1月11日)。
春爛漫。満開の桜の木の下に立って散る桜の花びらを身に受けたときの感想が、写真で見るとまったく薄い印象でしかない。人の眼の感受性とカメラアイの機会的・物理的な処理では差異がある。なぜかを考えていたが、鈴木理策の「SAKURA07,4-70」を見たとき、網膜の底で無意識に感じとった光の記憶を呼び起こしてくれたというのである。
小さな写真だけれど、想像力を働かせればある程度は実感できる。《そう、この感じだ!!》わたしは、肯いた。
桜を体感したときの感動を何か平面的なものに置換することは極めて困難であって、絵に描かれた桜を見ても(まあ、こんな感じであることは間違いないし、これを描くには大変なエネルギーを要したに違いない)という感想に留まることが多い。
全くそのままを写し取る写真ならばと思っていたけれど、確かに(ありありと)という感動にまでは及ばないのが通例である。
桜の写真・・・桜を引き立てるような背景・構図・空間の広がりをもって鑑賞者の桜に対する思い入れを喚起する。鑑賞者の脳・眼差しを持って記憶と結びつけるのである。薄い花びら、淡いピンク、風に舞うほどの軽さ、その恐るべき集合体の脅威は非情な優しさを持って心の奥深くへと感応させていく。痺れるような恍惚感。
これを人工的な作意を持って移行させ、永遠の形に留め置くのは限りなく難しい。
しかしこの「SAKURA07,4-70」という作品、手前のピン呆けの大きな花びらと遠景の小さな桜の差異が人の脳を刺激する。普通あんなに呆けるほど近くで桜を見ることはない、というか、見ること事態叶わない。これは眼の奥の残像とも言える。ある意味、人の視覚を超えた桜であるという印象を与える。
この印象の大きな差異が視覚の脳の処理を烈しく揺さぶる、その結果の感動で、自分の位置が不覚にも失われるような錯覚に陥る。つまり桜の真ん中に立っている気分に錯誤する。不思議な体感としての作品の成就。
福岡伸一は視覚の新しい切り口を教えてくれている。
春爛漫。満開の桜の木の下に立って散る桜の花びらを身に受けたときの感想が、写真で見るとまったく薄い印象でしかない。人の眼の感受性とカメラアイの機会的・物理的な処理では差異がある。なぜかを考えていたが、鈴木理策の「SAKURA07,4-70」を見たとき、網膜の底で無意識に感じとった光の記憶を呼び起こしてくれたというのである。
小さな写真だけれど、想像力を働かせればある程度は実感できる。《そう、この感じだ!!》わたしは、肯いた。
桜を体感したときの感動を何か平面的なものに置換することは極めて困難であって、絵に描かれた桜を見ても(まあ、こんな感じであることは間違いないし、これを描くには大変なエネルギーを要したに違いない)という感想に留まることが多い。
全くそのままを写し取る写真ならばと思っていたけれど、確かに(ありありと)という感動にまでは及ばないのが通例である。
桜の写真・・・桜を引き立てるような背景・構図・空間の広がりをもって鑑賞者の桜に対する思い入れを喚起する。鑑賞者の脳・眼差しを持って記憶と結びつけるのである。薄い花びら、淡いピンク、風に舞うほどの軽さ、その恐るべき集合体の脅威は非情な優しさを持って心の奥深くへと感応させていく。痺れるような恍惚感。
これを人工的な作意を持って移行させ、永遠の形に留め置くのは限りなく難しい。
しかしこの「SAKURA07,4-70」という作品、手前のピン呆けの大きな花びらと遠景の小さな桜の差異が人の脳を刺激する。普通あんなに呆けるほど近くで桜を見ることはない、というか、見ること事態叶わない。これは眼の奥の残像とも言える。ある意味、人の視覚を超えた桜であるという印象を与える。
この印象の大きな差異が視覚の脳の処理を烈しく揺さぶる、その結果の感動で、自分の位置が不覚にも失われるような錯覚に陥る。つまり桜の真ん中に立っている気分に錯誤する。不思議な体感としての作品の成就。
福岡伸一は視覚の新しい切り口を教えてくれている。