続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

土方明司の視点②

2015-03-05 06:31:37 | 美術ノート
(やっぱり)そう思った。日経に連載された「詩魂の画家」十選、あきらかに魂の見えない暗部を凝視した作品に関心を抱いている。
《確かにそうかもしれないが、ちょっと距離を置いて見る》そういう傾向にある作品群である。しかし具体性があり、その意図には奇妙な細工などは施されていない。愚直なまでに真直ぐ精神に向き合っている。その強烈な直感力が鑑賞者を戸惑わせるのである。

 三岸好太郎「飛ぶ蝶」を土方明司は「視覚詩」と名づけている。彩色の差異、微妙なずれのある配置、標本から飛び立つかの蝶(ありえない錯視)、静かにリズムは打たれ、メロディは流れている。この楽想に魅かれるのだと思う。

 中川一政「静物(びん・白布)」には、配置の気配から生れる詩情に寂莫たる余韻があるという。豪放闊達と称された画家の触ることを許されないような深遠の核である基点がここにあるという風である。

 長谷川潾二郎「猫と毛糸」。「現実は精巧に出来た造られた夢である」と言ったという長谷川潾二郎。(何だ随分お幸せな画家だなぁ)と思わないこともないけれど、「可視と不可視の境界にあるもの。目に見えるものは、目に見えないものだ」という観点は哲学者の眼差しである。
《では、何を見ていたのか》という疑問が、「猫と毛糸」に集約されているのかもしれない。この油断も隙もある猫は毛糸を凝視している、実に滑稽である。この滑稽さが自身であるという帰結を感じるが、神秘と不思議を救い取っていると土方明司は括っている。

 瓜南直子「夜の図鑑」などは相当気味が悪い。しかし「兎神国」という瓜南が創造した物語に起因する作品は、「祖先の末裔として語られていない拾遺を描いていきたい」という作家の主旨がある。太陽の代わりに月が統べる国、登場する童女は作家の分身であるらしい。アニミスティックな感性・・・。アニミスティックな感性こそが土方明司の隠された眼差しであって、陽が燦々と降り注ぐような暑苦しさは敬遠したいという風である。

 沈思黙考、深遠なる精神の風景に出会いたい! そういう眼差しを感じる。作品に独り対峙し、語り合っている光景が遠く微かに浮かんでくる。精神の闇へのもの哀しいまでの執拗さが、土方明司の原点であるような気がする。

『城』1897。

2015-03-05 05:59:54 | カフカ覚書
そして、こんどは、Kにだけむかって、「きみは、いまから橋屋へいって、おれの昼食をとってくるんだ!」
 教師は、狂ったようにがなりたてたのだが、言葉そのものは、かなりおだやかだった。本来ならぞんざいな<きみ>という言いかたにしても、そうだった。Kは、すぐにも言いつけどおりにしようとおもったが、教師の腹のなかをさぐりだすために、「わたしは、解雇を言い渡されたはずなんですがね」と言った。


☆そして、こんどは、Kにだけむかって、「きみは、いまから(死の)仲介であるハロー(太陽の暈)へいって、分かれ道の一番星(早い運勢)をとってくるんだ!」と狂ったように叫んだ。Kは、直ちにそうしようと思ったが空虚(幻影)との関係を聞きだすために、「わたしは契約解除になったはずだ」と言った。

『城』1897。

2015-03-05 05:59:54 | カフカ覚書
そして、こんどは、Kにだけむかって、「きみは、いまから橋屋へいって、おれの昼食をとってくるんだ!」
 教師は、狂ったようにがなりたてたのだが、言葉そのものは、かなりおだやかだった。本来ならぞんざいな<きみ>という言いかたにしても、そうだった。Kは、すぐにも言いつけどおりにしようとおもったが、教師の腹のなかをさぐりだすために、「わたしは、解雇を言い渡されたはずなんですがね」と言った。


☆そして、こんどは、Kにだけむかって、「きみは、いまから(死の)仲介であるハロー(太陽の暈)へいって、分かれ道の一番星(早い運勢)をとってくるんだ!」と狂ったように叫んだ。Kは、直ちにそうしようと思ったが空虚(幻影)との関係を聞きだすために、「わたしは契約解除になったはずだ」と言った。