今週の予定を見ても一つも記入がない、予定なしである。
どこかへ行きたい出かけたいというほどの意欲がない。あちこちで催されている展覧会も独りでは億劫で出かけられない。ルネ・マグリット展を国立新美術館でやるようだけど、大江戸線に乗るのが怖いから(どうしよう)と迷っている。迷っているうちに大抵の美術展は終了してしまう。そんな風な日常である。
何かのイベントに申し込む→(どうぞ)の通知が来る→自分で申し込んだのだから行かないわけにはいかない。という強迫観念(?)なしには行動できない。自由な行動パターンというものがわたしには無い。
空白の日常。
「家の中ばかりいたらストレスが溜まるでしょう」と心配してくれる人がいるけど、その閉塞感が好きなのである。
こんな風だから、足腰弱く、膝関節痛なんかになってしまったに違いない。
チャイムが鳴る→立ちあがる、この動作が唯一の家の中の運動である。いえ、もう少しある。お湯を沸かす、ゴミを捨てる、洗濯物や布団を干す・・・この程度がすべてである、このすべてがわたしにとってのリハビリになっている。
この日常を思い返すと、ため息が出る。《これでは!》まるで運動量が足りない、病人としか思えない。
《動けるのに動かない》→《動きたくても動けない》という状態に移行することは目に見えている。
「さあ、今からでも」わたしの中の誰かが誘う。「ちょっと待って、明日からにするわ」と、わたし。
(予定なし)に安らいでいるわたしは、棺おけに片方足を入れている状態かもしれない。
『すべてはリハビリのために!』さぁ、さぁ・・・誰か背中を押してください!
どこかへ行きたい出かけたいというほどの意欲がない。あちこちで催されている展覧会も独りでは億劫で出かけられない。ルネ・マグリット展を国立新美術館でやるようだけど、大江戸線に乗るのが怖いから(どうしよう)と迷っている。迷っているうちに大抵の美術展は終了してしまう。そんな風な日常である。
何かのイベントに申し込む→(どうぞ)の通知が来る→自分で申し込んだのだから行かないわけにはいかない。という強迫観念(?)なしには行動できない。自由な行動パターンというものがわたしには無い。
空白の日常。
「家の中ばかりいたらストレスが溜まるでしょう」と心配してくれる人がいるけど、その閉塞感が好きなのである。
こんな風だから、足腰弱く、膝関節痛なんかになってしまったに違いない。
チャイムが鳴る→立ちあがる、この動作が唯一の家の中の運動である。いえ、もう少しある。お湯を沸かす、ゴミを捨てる、洗濯物や布団を干す・・・この程度がすべてである、このすべてがわたしにとってのリハビリになっている。
この日常を思い返すと、ため息が出る。《これでは!》まるで運動量が足りない、病人としか思えない。
《動けるのに動かない》→《動きたくても動けない》という状態に移行することは目に見えている。
「さあ、今からでも」わたしの中の誰かが誘う。「ちょっと待って、明日からにするわ」と、わたし。
(予定なし)に安らいでいるわたしは、棺おけに片方足を入れている状態かもしれない。
『すべてはリハビリのために!』さぁ、さぁ・・・誰か背中を押してください!