続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

めぐる季節(時間)の中で。

2015-03-07 06:24:07 | 日常
 バスの中での年配の婦人たちの会話。
「ついこの間、暮れだのお正月だのって言っていたのに、もう三月ですものね」
「ほんとうに、年毎に早くなるような気がします」

 どの年代にも等しく月日(時間)は流れている、けれど、年配者が口にする感覚には、今まで生きてきた年月以上の時間などは残されていないという一抹の淋しさと焦りがある。(ゆっくり)を望んでいるけれど、気づけば《すでに》と、愕然としてしまう。もう、こんなに過ぎてしまったなんて嘘であってほしい、でも現実は決定事項であって個人的に何をもってしても動かすことは出来ない。

 季節はめぐる。幾つもの冬は通り過ぎ、幾つもの春を迎えてきた。
《この次の春も迎えられるでしょうか?》わたしの問いに答えるものはいない、不確定事項の領域を生きている。

 だからこそ、桜の開花を待ち、桜の花を愛で、あんなに美しく咲き誇る桜に心を打たれるのかもしれない。桜は希望であり、はかなさの象徴でもある。
 
 年毎に早く感じられる時間の流れは、心理学的に考えると障害物の少なさ(鈍感さ)が原因しているかもしれない。少なくとも年配者には分刻みの予定など例外を除けばありえない日常である。忙しくないことが時間を速めていると言えるかもしれない。
 過去の時間は自身の中では自在に動くが、未来の時間に期待をこめて活動できる自分でいたい。未来の階段(時間)は上ろうとする意志さえあれば、延びていくものと希望的観測を抱いている。

『城』1899。

2015-03-07 06:02:05 | カフカ覚書
「じゃ、解雇の通告を無効にするには、それで十分だということですね」
「おれにとっては十分じゃない。これは、信じてくれていい。が、たぶん村長にとってはそれでいいようだ。納得のいかん話だがね。さあ、ひとっ走りしてくれ。でなきゃ、さっさとここを引きあげてもらいたい」


☆「約束の破棄を無効にするにはそれで十分なのか」とKはたずねた。「わたしには十分じゃありませんがね」と空虚(幻影)は言った。「わたしの信念だと思ってくれ、たぶん、会衆の長はそれでいいようだがね。不可解なことだけれど。さあ荒地へ、でなければ本当に出て行ってもらいたい」