続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

金山康喜『ヒラメと天秤のある静物』

2015-03-30 07:15:49 | 美術ノート
 テーブルはやっぱり傾いでいる、天窓の線との焦点を結ばない。しかしテーブルの上のオブジェは垂直に立ち、ランプは垂直に下りているので不安定感はない。認識を促さない程度の微かな違和感・・・全くの無風状態でないという作家独特の企みがベースにある。

 窓からは外光が差し込んでいる、室内よりは明るいといった不十分に思える採光である。この窓(壁)が床に垂直(直角)にあるとするならば、このテーブルは後方へ倒れこむはずである、そしてこの上に置かれたオブジェの類は全て落下してしまう、そういう危うい設定を隠された意図として隠蔽している。
 画面の中で、水差しの乳白色のみがシャープさで際立ち、暗い室内に舞い降りた天使(救済)という風な爽やかさを見せている。このすっくと立った水差しの前ではレモンは打ち沈み存在感が薄い。

 その水差しに隠れるようなヒラメの姿・・・まな板の鯉に類した憔悴、諦念。
 天秤で量られる器の中のヒラメは空(空虚)の器よりわずかに重い。その重さが生命力なのか、ため息なのかを、図り知ることはできない。切迫ある哀愁は空虚より重いかもしれない。(仮に燃え上がる情熱などというものは空虚に比して軽いのだろうか)

 ヒラメに託した自身の姿は、水差しの際立つ存在感に比して貧弱であり情けない。高級魚だという誇りはここでは無用のようである。
 ヒラメ(自分)の上に被さるように垂れる電球(ランプ)との距離の近さは、何を意味しているのだろう。滑稽でもあり、救いを求めているようでもあるが、そのランプに光はない。二匹のヒラメと二つの電球、所在なげである。どちらにも活力が感じられない。(ランプは普通に考えて、生命(心霊)の暗示/心の揺れ、情熱の感度)

 望みなしのヒラメは自身なのだろうか。室内の空気は白い靄のかかったブルーで淡い期待(青春時代の希望)を抱かせる青である。

 空虚と天秤にかけても差異の薄い自分(ヒラメ)、恨めしく天井を見上げるしかない。白い水差しは憧れの女性だろうか、あるいはフランスという他国の眩しい活力を示唆しているのだろうか。

《わたしはこのようである》という告白だと思う。(写真は神奈川県立近代美術館カタログより)

『城』1922。

2015-03-30 06:34:03 | カフカ覚書
これでも人を見る眼をもっているつもりのわたしでさえ、まんまと一杯食わされたようなものだよ、と言うのです。しかし、橋屋であなたと最後に話し合ってからは、お内儀さんは、あなたの策略を見やぶったそうです。


☆人見る眼を鋭利にしているわたし自身でさえ、ほとんど分かりませんでした。しかし(小舟)は、ハロー(死の入り口)への仲介、別離の対話です。言葉はあなたとの(争いを)調停したのです。