『風景の魅惑』と題されているが、風景(屋外の自然な景色)が見当たらない。
室内だろうか、しかし、額縁の影が床面で消えているような描き方である。壁は暗黒色に近いので、単に影の色は融解しているに過ぎないのかもしれない。ただ、光は前方から来ているのだから、黒い壁もそれなりに照らされ、影が映るはずである。
つまりは深い闇、虚空と捉えて差し支えない空間だという解釈が妥当である。
立っている額に何かの仕掛けになるような支えはあるのだろうか、単に額はこの空間の中でしっかり立っている、あたかも何の問題もないように見える。もし倒れたなら、奈落の底へと堕ちていくような深い闇が背後にはある。床面と背後との距離は至近に見えて図り知れない虚空でもある。
『風景』だときっぱり言っているが、わたしたちが知るところの風景は見えない。では、虚空もまた風景なのであろうか。
風景と名づけられたことで、鑑賞者は風景を探す、何とか風景に結び付けようとするが、徒労に終わってしまう。風景らしさの手掛かりは微塵もないからである。
右端にライフルが、こちらは壁に立てかけて置かれている。立っているが、壁により掛けてあるのでこちらは重力の法則に逆らうものではない。重力から開放された空間と重力下の空間の二つが入り混じった空間ということになる。
ライフルの意味を考えると、破壊あるいは暴力的な否定というイメージが喚起される。そして、壁の赤色は強い情念を発している。
額縁は虚空を描いたのではなく、明らかに虚空へと突き抜けている。この風景こそが、自分を惹きつける唯一の光景なのだと言っている。(亡母へ続く景色かもしれない)
マグリットの個人的な原風景としての『風景の魅惑』なのだろうか。彼の胸に去来する風景の殺伐、この虚しさへの復讐。
この暗澹たる空漠の風景に、敵意の誘惑が消えることなく囁く。この混沌、この矛盾、この光景こそが胸の奥底に秘かに眠る「風景の魅惑」かもしれない。
こんな一考を、マグリットは許してくれるだろうか。(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)
室内だろうか、しかし、額縁の影が床面で消えているような描き方である。壁は暗黒色に近いので、単に影の色は融解しているに過ぎないのかもしれない。ただ、光は前方から来ているのだから、黒い壁もそれなりに照らされ、影が映るはずである。
つまりは深い闇、虚空と捉えて差し支えない空間だという解釈が妥当である。
立っている額に何かの仕掛けになるような支えはあるのだろうか、単に額はこの空間の中でしっかり立っている、あたかも何の問題もないように見える。もし倒れたなら、奈落の底へと堕ちていくような深い闇が背後にはある。床面と背後との距離は至近に見えて図り知れない虚空でもある。
『風景』だときっぱり言っているが、わたしたちが知るところの風景は見えない。では、虚空もまた風景なのであろうか。
風景と名づけられたことで、鑑賞者は風景を探す、何とか風景に結び付けようとするが、徒労に終わってしまう。風景らしさの手掛かりは微塵もないからである。
右端にライフルが、こちらは壁に立てかけて置かれている。立っているが、壁により掛けてあるのでこちらは重力の法則に逆らうものではない。重力から開放された空間と重力下の空間の二つが入り混じった空間ということになる。
ライフルの意味を考えると、破壊あるいは暴力的な否定というイメージが喚起される。そして、壁の赤色は強い情念を発している。
額縁は虚空を描いたのではなく、明らかに虚空へと突き抜けている。この風景こそが、自分を惹きつける唯一の光景なのだと言っている。(亡母へ続く景色かもしれない)
マグリットの個人的な原風景としての『風景の魅惑』なのだろうか。彼の胸に去来する風景の殺伐、この虚しさへの復讐。
この暗澹たる空漠の風景に、敵意の誘惑が消えることなく囁く。この混沌、この矛盾、この光景こそが胸の奥底に秘かに眠る「風景の魅惑」かもしれない。
こんな一考を、マグリットは許してくれるだろうか。(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)