[稲村先生の授業]
先土器~弥生時代の三浦半島
「破片一つでも歴史的な価値があります。価格は需給の関係で決まりますが発掘したものは、価格とは無縁の絶対的な存在です。それら破片を復元していくと、空間が分かります。つまり三次元になると、やじりであったり、石やりであったりと、生活が見えてくるということです。
旧石器などはバイカル湖(ロシア)あたりから入ってきたのではないかと言われていますが、日本人は南方系であり、南方には石器文化というものはありません。
南の地域では、簡単な道具で食料が手に入るので確保する手立てを必要としなかったためです。北(ヨーロッパ)と南(アジア)では生活形態が違い、また交易もなかったと思われます。
旧石器時代・・・長浜ノ上遺跡・打木原遺跡・大塚東遺跡などがあります。
縄文式土器ー現在のソレイユの丘周辺の赤土の上、火山灰(黒)の堆積したところに住居跡が見つかっており、そのあたりはキャンプ地であったろうと推測されます。定住ではなく移動していたのでしょう。丸底、尖底の深鉢形の土器に食材を入れ、焼石を入れて調理していたものと思われます。
草創期・住居跡としては長井台地遺跡群。
夏島式土器(早期前半)は9.600年位前だと分かっていますが、それは炭素同位体に変化がみられることで判明します。(茅山遺跡)
早期後半~中期には吉井貝塚、後期後半には高坂貝塚が見られました。
平坂式に無紋式土器が発見されています。(小学生が人骨を発見)
縄文土器ー沈線文(線を引くだけ)
田戸式土器は撚糸文、泥線文、条痕文(貝でこすって痕をつける)野島式土器は細い紐を寄せて立体にする方法で作っています。
氷河期も終わりになると海水面が上がり、砂泥質の入江ができたため、真牡蠣などを採取。
中期は人の形跡がなく遺跡はほとんど見つかっておりませんが、久里浜で中期初頭に丸木舟(博物館に展示)が出土されています。京大の北白川発掘調査では縄文を疑うほどの薄い土器が出土しました。
協業/追い込み漁、農業は焼畑農業が始まり、土を掘る道具(打製石器)ができました。大量のシジミが採取された際には加工食にもしており、また山菜なども食料にしていました。浦賀高坂貝塚や久里浜花の国あたりは、縄文晩期になると三浦半島には数家族が季節によって人が往来するようになりましたが、三浦半島には弥生時代の前期の発掘はありません。前期は(地域としては)秦野あたりまでで、日本海側に北上していったものとみられ、青森県垂柳には弥生前期の形跡が残っています。水田は作っていましたが、輪作けいがいがでていないので継続に関しては不確定です。
このため、稲作が始まったことで水田の良し悪しによる地域の格差が生まれました。
太平洋側には弥生中期にならないと出土の形跡は見つかりません。南関東では縄文晩期の暮らしが続行。西日本は厳しい自然条件であったため、水田による稲作が始まったと思われます。そのため(西日本の)勢力が強化されていきました。
(三足土器)平沢同明の壺は土が粉のような雲母を含み、光輝が見られる独特な仕上がりが見られます。
また再葬墓という慣習も生まれました。
三浦半島が弥生時代に移行したのは(弥生時代の)中期の中ごろです。
遊ケ崎遺跡があり、後半になると、宮ノ台、三崎口の赤坂遺跡などが、弥生時代をもたらしました。小矢部(ひるが岳)には人頭型の土石が出土しています。
横浜あたりの居住域が飽和状態にると三浦半島へと居住を移動していったのではと思われます。
中期には首が細く容積の大きい土器が出土していますが、保存する種を空気に触れないように使用されたものと思われます。
≪縄文時代≫と≪弥生時代≫の決定的な違いは朝鮮から伝わったとされる稲作とそのことによる定住です。そのため、住居を造ったり家財道具を作るための道具が必要になりました。その結果、太くて丸く重さで切る石斧や、ほぞを作り組み立てた片刃などが出土しています。」
手作業で何かを作り、その日の糧を得る暮らし。遠い祖先の汗に胸打たれる気持ちでした。
稲村先生、ありがとうございました。
先土器~弥生時代の三浦半島
「破片一つでも歴史的な価値があります。価格は需給の関係で決まりますが発掘したものは、価格とは無縁の絶対的な存在です。それら破片を復元していくと、空間が分かります。つまり三次元になると、やじりであったり、石やりであったりと、生活が見えてくるということです。
旧石器などはバイカル湖(ロシア)あたりから入ってきたのではないかと言われていますが、日本人は南方系であり、南方には石器文化というものはありません。
南の地域では、簡単な道具で食料が手に入るので確保する手立てを必要としなかったためです。北(ヨーロッパ)と南(アジア)では生活形態が違い、また交易もなかったと思われます。
旧石器時代・・・長浜ノ上遺跡・打木原遺跡・大塚東遺跡などがあります。
縄文式土器ー現在のソレイユの丘周辺の赤土の上、火山灰(黒)の堆積したところに住居跡が見つかっており、そのあたりはキャンプ地であったろうと推測されます。定住ではなく移動していたのでしょう。丸底、尖底の深鉢形の土器に食材を入れ、焼石を入れて調理していたものと思われます。
草創期・住居跡としては長井台地遺跡群。
夏島式土器(早期前半)は9.600年位前だと分かっていますが、それは炭素同位体に変化がみられることで判明します。(茅山遺跡)
早期後半~中期には吉井貝塚、後期後半には高坂貝塚が見られました。
平坂式に無紋式土器が発見されています。(小学生が人骨を発見)
縄文土器ー沈線文(線を引くだけ)
田戸式土器は撚糸文、泥線文、条痕文(貝でこすって痕をつける)野島式土器は細い紐を寄せて立体にする方法で作っています。
氷河期も終わりになると海水面が上がり、砂泥質の入江ができたため、真牡蠣などを採取。
中期は人の形跡がなく遺跡はほとんど見つかっておりませんが、久里浜で中期初頭に丸木舟(博物館に展示)が出土されています。京大の北白川発掘調査では縄文を疑うほどの薄い土器が出土しました。
協業/追い込み漁、農業は焼畑農業が始まり、土を掘る道具(打製石器)ができました。大量のシジミが採取された際には加工食にもしており、また山菜なども食料にしていました。浦賀高坂貝塚や久里浜花の国あたりは、縄文晩期になると三浦半島には数家族が季節によって人が往来するようになりましたが、三浦半島には弥生時代の前期の発掘はありません。前期は(地域としては)秦野あたりまでで、日本海側に北上していったものとみられ、青森県垂柳には弥生前期の形跡が残っています。水田は作っていましたが、輪作けいがいがでていないので継続に関しては不確定です。
このため、稲作が始まったことで水田の良し悪しによる地域の格差が生まれました。
太平洋側には弥生中期にならないと出土の形跡は見つかりません。南関東では縄文晩期の暮らしが続行。西日本は厳しい自然条件であったため、水田による稲作が始まったと思われます。そのため(西日本の)勢力が強化されていきました。
(三足土器)平沢同明の壺は土が粉のような雲母を含み、光輝が見られる独特な仕上がりが見られます。
また再葬墓という慣習も生まれました。
三浦半島が弥生時代に移行したのは(弥生時代の)中期の中ごろです。
遊ケ崎遺跡があり、後半になると、宮ノ台、三崎口の赤坂遺跡などが、弥生時代をもたらしました。小矢部(ひるが岳)には人頭型の土石が出土しています。
横浜あたりの居住域が飽和状態にると三浦半島へと居住を移動していったのではと思われます。
中期には首が細く容積の大きい土器が出土していますが、保存する種を空気に触れないように使用されたものと思われます。
≪縄文時代≫と≪弥生時代≫の決定的な違いは朝鮮から伝わったとされる稲作とそのことによる定住です。そのため、住居を造ったり家財道具を作るための道具が必要になりました。その結果、太くて丸く重さで切る石斧や、ほぞを作り組み立てた片刃などが出土しています。」
手作業で何かを作り、その日の糧を得る暮らし。遠い祖先の汗に胸打たれる気持ちでした。
稲村先生、ありがとうございました。