続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

三浦半島の歴史2。

2015-05-21 07:00:27 | 博物館講座
[稲村先生の授業]

観音崎バス停集合。
 瘤ノ木横穴墓群[古墳]を確認。「集落遺跡はこのあたりにはありません。あるのは鴨居の漁港・谷屋戸遺跡、それに上野台集落の(100)位であり、それもごく短期間と思われます。なぜならここらあたりには生産基盤がないからです。砂地のため基本である田んぼを作ることができなかったからです。
 佐島/大楠中学のしたあたりに前庭部の広い一穴巨大の大窟があります。副葬品などは出土されないため、共同墓地だったと思われます。
 美術館の向こう側には半島でも一二を争う横穴墓がありますが、樹木で覆われ今は見えません。

 古墳というものは一般に南向きに作られます、それが占いに因るものであるのかという根拠は分かっていません。(南中、つまりは太陽信仰。あるいは甦りを想定したものかもしれない)富士見町・田戸台には横穴(60穴)があります。西浦賀には貝塚がありませんが、砂浜に捨てられた貝も陸が隆起していますから(貝塚は)海の底ということかもしれません。

 古代の銅剣・銅鐸(菱環型)が淡路島で出土され奈良橿原でも銅鐸が出ましたが、使用の形跡のないものもあります。九州のお墓から銅鐸や鏡などが出土しています。三浦半島への伝承は陸路ではなく、海路で伝達されてきたものと思われます。遠浅(海岸)だった馬堀の横穴からは大量の置物が出ています。隣接ではあっても走水などは谷戸がないため風避けができず、なおかつ磯であるため船が着けなかったという事情があります。

 蓼原遺跡/全長28mの前方後円墳があり、畑の中からは埴輪も出土しています。
 江ノ電/和田塚では赤星先生が埴輪を発掘しています。(盾を持った人)5~6世紀/破片


≪横須賀美術館では『人物埴輪(和琴は5世紀ごろ朝鮮半島から伝来)・円筒埴輪・馬形埴輪・家形埴輪』の展示を鑑賞≫

 これらは量産したもので、窯のあるところへ出かけて(移動し)焼いたらしい。それにしても≪美しい≫というのがわたしの印象。副葬品としての埴輪には鎮魂がこめられている。
 食を求めるままに彷徨した我祖先、古の誇りある証し『埴輪』を感慨深く拝見。
 稲村先生、ありがとうございました。

『城』1970。

2015-05-21 06:30:44 | カフカ覚書
その場合には、そして、その場合のみ、ほんとうにぼくは、打算と計略できみをかどわかし、きみという所有物をだしにして暴利をむさぼっているといわれてもしかたがない。


☆その場合は、その場合のみ、ほんとうにわたしは正当性を持って命の灯を消し、この所有の重みを得ている。