家族葬が増えている。
奉仕活動で伺うと、「主人は去年の十月に亡くなりました。十三年も施設のお世話になりましたけれど・・・」と、打ち明けられる。
そういえば、Aさん宅でもBさん宅でも。そして「この界隈では三人の方が亡くなったそうですが、わたしはぜんぜん知りませんでいした」というCさんの嘆息も聞いたことがある。
かくいうわたしも家族葬にしたい。ごく至近の身内が膝を突き合わせて送ってくれれば十分だし、死者が生者を走らせてはならないと思っている。父母を送った経験からも、そう思う。
この世にお別れする日は、そんなに遠くない。順番待ちと行きたいところだけど、こればかりは神さまの思し召し通りに従うつもり。
《正しく緊張感をもって有終の美を飾る》なんてこと言っていられないかもしれないけれど、まぁ、その時が来たらにっこり笑って手を振りたい。
未練も無いし、やり残したというほどの仕事もしていない。お気楽な人生だったと括りたい。
町全体が高齢化している。「あなたお幾つ?」「68才です」「あら、お若い!」
68才が若いなんて、仰天してしまう。
佐野町にある亀葬の社長さんが、「アパートの二階にお住まいの方がお亡くなりになり、下の空き地でのご葬儀になりましたが、いい葬儀でした」と述懐していたのを思い出す。
その葬儀には『心』があったのだと思う。
周りの人が心から哀悼の意を送る、そういう空気に満たされた場であったのに違いない。
「家族葬でいい」ということが、(簡単に済ましていい)という意味にとられては困る。その人の人生への尊厳に敬意を払い、敬虔な気持でお見送りするという事が形式的にならないように、ということである。
奉仕活動で伺うと、「主人は去年の十月に亡くなりました。十三年も施設のお世話になりましたけれど・・・」と、打ち明けられる。
そういえば、Aさん宅でもBさん宅でも。そして「この界隈では三人の方が亡くなったそうですが、わたしはぜんぜん知りませんでいした」というCさんの嘆息も聞いたことがある。
かくいうわたしも家族葬にしたい。ごく至近の身内が膝を突き合わせて送ってくれれば十分だし、死者が生者を走らせてはならないと思っている。父母を送った経験からも、そう思う。
この世にお別れする日は、そんなに遠くない。順番待ちと行きたいところだけど、こればかりは神さまの思し召し通りに従うつもり。
《正しく緊張感をもって有終の美を飾る》なんてこと言っていられないかもしれないけれど、まぁ、その時が来たらにっこり笑って手を振りたい。
未練も無いし、やり残したというほどの仕事もしていない。お気楽な人生だったと括りたい。
町全体が高齢化している。「あなたお幾つ?」「68才です」「あら、お若い!」
68才が若いなんて、仰天してしまう。
佐野町にある亀葬の社長さんが、「アパートの二階にお住まいの方がお亡くなりになり、下の空き地でのご葬儀になりましたが、いい葬儀でした」と述懐していたのを思い出す。
その葬儀には『心』があったのだと思う。
周りの人が心から哀悼の意を送る、そういう空気に満たされた場であったのに違いない。
「家族葬でいい」ということが、(簡単に済ましていい)という意味にとられては困る。その人の人生への尊厳に敬意を払い、敬虔な気持でお見送りするという事が形式的にならないように、ということである。