[稲村先生の授業]
(縄文~弥生~古墳)
「つまり三浦半島というのは、西から東、あるいは東から西への文化の伝達における海路の≪中継地≫だったということです。千葉の市原や東京湾の奥である荒川や埼玉への中継地、ハブ港だったわけです。また、有力者が出現するような場所でもなく、周囲は海に囲まれていますから、当時の技術では稲作ということも考えられなかったわけです。
弥生時代の中ごろの時期までは交流を示すものが出ておりません、いわゆる停滞期です。
弥生の中期以降になりますと三浦の赤坂遺跡、小矢部の蛭田古墳などがあります。小田原などでは瀬戸内の土器が出ていますが西から集団でやってきた人たちが稲作(水田)を作り定着していったようです。佐原の泉遺跡では破片(二片)が出ています。
新潟の人が遠路はるばる山を越えて伊勢原へやって来て土器を作っています、単発的ではありますが釜戸を作ってもいます。
◎方形周溝墓/周囲に溝を掘り、掘った土を中に入れる。(中期以降副葬品として鉄剣が出ている)
①一つの墓に幾つかを埋める/共同体→集団の中で選ばれた人→単独→発展≪王の墓≫
②土壙墓
③木棺墓/三崎/水戸浜
山梨県の上の台、上の原台地には一辺が35メートルもある方形周溝墓があります。(通常は一辺10メートル前後)
弥生後期になっても方形周溝墓を作っていますがその間墓を作らなくなったりもしています。
九州などでは後期あたりから始めたようです。それまでは甕棺墓や墳丘。(奈良や大阪)
壺棺墓/北関東や東北に見られます。(一つの穴に幾つもの遺体)
集落全体を囲み溝を掘った例もあり(外部からの侵入や中の人の逃亡を防いだ)溝の淵に3メートルもの土手を築いたものもあります。また意味不明(目的の不明確)のものもあったようです。(単に模倣である可能性もあった)
千葉全体では100年くらいの間に方形周溝墓が出ています。
佐島(三浦半島)の方形周溝墓(一基)からはガラスの勾玉や鉄剣が出ています。八幡神社の方形周溝墓は4世紀後半のものです。
平原弥生古墳の方形周溝墓からは鏡(鋳型で作られた鏡)が十何面も出ています。
◎前方後円墳
高部(鏡が出土)神門(鉄/やじり)
奈良・纏向/卑弥呼の館がある場所。(直径60メートル、高さ10メートル)
大和(おおやまと)三輪神社(200~300メートルの大きな古墳)
◎S字溝縁台付甕/粒の粗い雲母がキラキラしている。砂(四日市の砂)をつけています。
大陸~九州~畿内。東海の人が集団で移動。
S字があるということは煮炊きをした形跡があるということで生活をしていたということが伺えます。
『土器』
朝鮮半島の土器を渡来人が伝えましたが定着はしなかったようです。
〈製鉄〉鉄を作るのではなく製器生産(仁徳/国立機関で作らせた)→日本中に供給されている/量産体制
陶器/釉をかける。(粘土)
掛けないもの、自然/須恵器(自然釉)灰は珪質(ガラス質)なのでガラス化して釉のように付着したものです。
磁器(ガラス質を含んだ石)有田・瀬戸周辺の二か所のみ。
☆三浦半島はこれら文化の中継地、面でなく線でつながるネットワークだったわけです。
郡司~群寺/影向寺(ようこうじ)7~8世紀初め。
地域ごとに作り、財政上、お堂が一つしかない箇所もあった(例/大津廃寺)
黄金・白銀・銅・石(ヒスイ)
青磁(磁器/ガラス質)を真似て陶器(粘土)に緑色を掛けたものがある。
宗元寺→曹源寺(8~9世紀の窯跡)・岩戸/満願寺(瓦を焼く技術)
小矢部では土器を焼いた窯跡が見つかっています。
弥生時代では三浦半島は生活というより海路の中継地であったということ。遠い古の風景に思いを馳せての授業。
知らないことを聴講できるって楽しい。
稲村先生、ありがとうございました。
☆平成25年5月28日/日経新聞
「青銅鏡鋳造型 国内最古か」製作史、覆す可能性の記事。福岡県春日市須玖タカウタ遺跡で、国内最古となる紀元2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅器鋳型が見つかった。鋳型の破片は石製で長さ5.1㌢、幅2.5㌢、厚さ2.3㌢。ひもを通すつまみ「鈕(ちゅう)が鏡の裏面に複数ついた「多鈕鏡」を製作する、国内で初めて見つかったタイプ。(略)見つかった鋳型は線が粗く、朝鮮半島製を模倣したとみられる。剣や矛などの青銅器は、紀元前3世紀ごろ伝来してまもなく国内生産が始まった。
前1世紀ごろの出土が最古とされていたが遺跡の竪穴住居では鋳型と同時期の紀元前2世紀ごろの剣や矛など青銅器の鋳型が大量に出土。多鈕鏡は近くの墓から見つかったが石材が似ていることから同時期のものと判断したという。
(縄文~弥生~古墳)
「つまり三浦半島というのは、西から東、あるいは東から西への文化の伝達における海路の≪中継地≫だったということです。千葉の市原や東京湾の奥である荒川や埼玉への中継地、ハブ港だったわけです。また、有力者が出現するような場所でもなく、周囲は海に囲まれていますから、当時の技術では稲作ということも考えられなかったわけです。
弥生時代の中ごろの時期までは交流を示すものが出ておりません、いわゆる停滞期です。
弥生の中期以降になりますと三浦の赤坂遺跡、小矢部の蛭田古墳などがあります。小田原などでは瀬戸内の土器が出ていますが西から集団でやってきた人たちが稲作(水田)を作り定着していったようです。佐原の泉遺跡では破片(二片)が出ています。
新潟の人が遠路はるばる山を越えて伊勢原へやって来て土器を作っています、単発的ではありますが釜戸を作ってもいます。
◎方形周溝墓/周囲に溝を掘り、掘った土を中に入れる。(中期以降副葬品として鉄剣が出ている)
①一つの墓に幾つかを埋める/共同体→集団の中で選ばれた人→単独→発展≪王の墓≫
②土壙墓
③木棺墓/三崎/水戸浜
山梨県の上の台、上の原台地には一辺が35メートルもある方形周溝墓があります。(通常は一辺10メートル前後)
弥生後期になっても方形周溝墓を作っていますがその間墓を作らなくなったりもしています。
九州などでは後期あたりから始めたようです。それまでは甕棺墓や墳丘。(奈良や大阪)
壺棺墓/北関東や東北に見られます。(一つの穴に幾つもの遺体)
集落全体を囲み溝を掘った例もあり(外部からの侵入や中の人の逃亡を防いだ)溝の淵に3メートルもの土手を築いたものもあります。また意味不明(目的の不明確)のものもあったようです。(単に模倣である可能性もあった)
千葉全体では100年くらいの間に方形周溝墓が出ています。
佐島(三浦半島)の方形周溝墓(一基)からはガラスの勾玉や鉄剣が出ています。八幡神社の方形周溝墓は4世紀後半のものです。
平原弥生古墳の方形周溝墓からは鏡(鋳型で作られた鏡)が十何面も出ています。
◎前方後円墳
高部(鏡が出土)神門(鉄/やじり)
奈良・纏向/卑弥呼の館がある場所。(直径60メートル、高さ10メートル)
大和(おおやまと)三輪神社(200~300メートルの大きな古墳)
◎S字溝縁台付甕/粒の粗い雲母がキラキラしている。砂(四日市の砂)をつけています。
大陸~九州~畿内。東海の人が集団で移動。
S字があるということは煮炊きをした形跡があるということで生活をしていたということが伺えます。
『土器』
朝鮮半島の土器を渡来人が伝えましたが定着はしなかったようです。
〈製鉄〉鉄を作るのではなく製器生産(仁徳/国立機関で作らせた)→日本中に供給されている/量産体制
陶器/釉をかける。(粘土)
掛けないもの、自然/須恵器(自然釉)灰は珪質(ガラス質)なのでガラス化して釉のように付着したものです。
磁器(ガラス質を含んだ石)有田・瀬戸周辺の二か所のみ。
☆三浦半島はこれら文化の中継地、面でなく線でつながるネットワークだったわけです。
郡司~群寺/影向寺(ようこうじ)7~8世紀初め。
地域ごとに作り、財政上、お堂が一つしかない箇所もあった(例/大津廃寺)
黄金・白銀・銅・石(ヒスイ)
青磁(磁器/ガラス質)を真似て陶器(粘土)に緑色を掛けたものがある。
宗元寺→曹源寺(8~9世紀の窯跡)・岩戸/満願寺(瓦を焼く技術)
小矢部では土器を焼いた窯跡が見つかっています。
弥生時代では三浦半島は生活というより海路の中継地であったということ。遠い古の風景に思いを馳せての授業。
知らないことを聴講できるって楽しい。
稲村先生、ありがとうございました。
☆平成25年5月28日/日経新聞
「青銅鏡鋳造型 国内最古か」製作史、覆す可能性の記事。福岡県春日市須玖タカウタ遺跡で、国内最古となる紀元2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅器鋳型が見つかった。鋳型の破片は石製で長さ5.1㌢、幅2.5㌢、厚さ2.3㌢。ひもを通すつまみ「鈕(ちゅう)が鏡の裏面に複数ついた「多鈕鏡」を製作する、国内で初めて見つかったタイプ。(略)見つかった鋳型は線が粗く、朝鮮半島製を模倣したとみられる。剣や矛などの青銅器は、紀元前3世紀ごろ伝来してまもなく国内生産が始まった。
前1世紀ごろの出土が最古とされていたが遺跡の竪穴住居では鋳型と同時期の紀元前2世紀ごろの剣や矛など青銅器の鋳型が大量に出土。多鈕鏡は近くの墓から見つかったが石材が似ていることから同時期のものと判断したという。