続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『礼節の教え』

2015-05-09 06:29:25 | 美術ノート
 何もない地平に、立木と岩石が並置されている。ただそれだけ・・・。
『礼節の教え』というからにはこの絵に、教訓があるということである。礼節とは礼儀と節度のことであり、社会や人との関係をスムーズにするための守るべき規約、また言動などの抑制ある慎みを程よく保持することである。

 要するに社会のルールとはこんなものである、と言っている。
 立木と岩石から連想されるものに何があるだろう。

 礼節→立木・岩石・・・仏教でも基教でも、木や石を刻んで像を造ってはならない。(仏教も最初の500年くらいはこの教えが守られていたと聞く)

 このことかもしれない。
 見る人を圧するような石と立木、あとは何もなく遥かに地平線が見えるのみの光景を、「礼節の教え」だと題している。

 拝礼のための像を刻んではならない。
 石は石のまま、立木は立木のまま、あるがままの自然を尊ぶこと。否、それ以上に「神は神である主のほかには在ってはならない、という教えを守る者であります」というマグリットの従順、あるいは皮肉かもしれない。


 立木は、生きるものであり、石は、死を予感させる。この対比だろうか。生と死の並列は人間の不可避の絶対条件である。人は生き、やがて死に至る。他でもないこの地上において。
 何もない地平(空漠)に等価に置かれた『石と立木』の意味するものは『生と死』の暗示かもしれない。
 この逃れられない運命を示唆し教えている・・・しかし、礼節の意味を含まないことから、やはり、信仰を基軸にした作品の提示ではないかとも思う。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)


※彼らは木に向かって、
『あなたはわたしの父です』と言い、
また石に向かって、
『あなたはわたしを生んで下さった』と言う。

石と木とに姦淫を行って、この地を汚した。

偶像の教えは、ただ木にすぎない。

(エレミヤ書より)

 石と木には宗教的な意味が含まれているかもしれない。

『城』1959。

2015-05-09 05:24:41 | カフカ覚書
あのときとちっとも異なったところがありませんでした。わたしは、もしお内儀さんがこの場にいて、あなたの話を聞いたとしたらどうだろうか、はたしてお内儀さんはそれでも意見を変えないだろうか。とおもったくらいですわ。


☆当時、小舟は差別されていました。わたしはもし言葉がここであなたの信念を聞いていたら、その場合でもまだあなたたちの意見は要塞を持つことだったのでしょうか。