等身大であるらしい女性の裸体を各切断し部分的に額に入れ、一個の女性の体をなしている。
頭部・胸部・腹部・大腿部・脚部・・・ばらばらであるが、鑑賞者の脳の中では一体に接続し認識される。なぜか? 経験上、熟知しているからである。絶対の配列といってもいい。順不同、ランダムはあり得ない。百人が百人肯く答えを提示している。
これ以外の答えはないと。
人はパーツをつなげる。各部分が切り離された驚愕よりも、余白を埋める潜在意識の方が強く働くからで、現実空間と絵空事空間(疑似空間)では次元が違うのだという意識を明確に持っている。軽く飛び越えてしまう空間認識の壁。
経験した≪当たり前≫の知覚は、対象を≪当たり前≫に結び付け、疑うことをしない。単に女の裸体であるよりも正面切って描かれた恥部への対峙に戸惑いを感じてしまう。もちろん情欲をそそるような描き方をしていない。しかし、心のどこかで覆うことの必然すら感じてしまう原初的な戸惑いである。
腕や手がないことは単に省略されたものとして脳内で整理される。不思議でもなんでもない。「手の力」のない晒された裸体に発言権は剥奪されている。鑑賞者はこの作品を前にして一個の裸体につなげることで納得し作品を後にする。
残された恥辱・行き場を失った屈辱は顧みられることなく作品に付着したままである。この憤り、置き去りにされた悲しみが静かに微笑むかの女性の顔に過る。
見る者と見られる者との間に生まれる亀裂・隙間・・・さらに言えば姦淫のイメージは神の怒りに触れたような気さえするのである。
『永遠の明証』という作品からは、表現(言語や表象)への動かし難い信奉性への警鐘を(どうしても)感じてしまう。
美しい女体も切断され額に入れられると美の印象は薄らぎ、動揺してしまう。(ああ、女体とはこのようなものであったのか)それにしても恥部への恥じらいがないことは、見る側を困惑させる。『永遠の明証』とは善悪を知るものの明証である。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)
頭部・胸部・腹部・大腿部・脚部・・・ばらばらであるが、鑑賞者の脳の中では一体に接続し認識される。なぜか? 経験上、熟知しているからである。絶対の配列といってもいい。順不同、ランダムはあり得ない。百人が百人肯く答えを提示している。
これ以外の答えはないと。
人はパーツをつなげる。各部分が切り離された驚愕よりも、余白を埋める潜在意識の方が強く働くからで、現実空間と絵空事空間(疑似空間)では次元が違うのだという意識を明確に持っている。軽く飛び越えてしまう空間認識の壁。
経験した≪当たり前≫の知覚は、対象を≪当たり前≫に結び付け、疑うことをしない。単に女の裸体であるよりも正面切って描かれた恥部への対峙に戸惑いを感じてしまう。もちろん情欲をそそるような描き方をしていない。しかし、心のどこかで覆うことの必然すら感じてしまう原初的な戸惑いである。
腕や手がないことは単に省略されたものとして脳内で整理される。不思議でもなんでもない。「手の力」のない晒された裸体に発言権は剥奪されている。鑑賞者はこの作品を前にして一個の裸体につなげることで納得し作品を後にする。
残された恥辱・行き場を失った屈辱は顧みられることなく作品に付着したままである。この憤り、置き去りにされた悲しみが静かに微笑むかの女性の顔に過る。
見る者と見られる者との間に生まれる亀裂・隙間・・・さらに言えば姦淫のイメージは神の怒りに触れたような気さえするのである。
『永遠の明証』という作品からは、表現(言語や表象)への動かし難い信奉性への警鐘を(どうしても)感じてしまう。
美しい女体も切断され額に入れられると美の印象は薄らぎ、動揺してしまう。(ああ、女体とはこのようなものであったのか)それにしても恥部への恥じらいがないことは、見る側を困惑させる。『永遠の明証』とは善悪を知るものの明証である。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)