続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『手の力』

2015-05-20 06:51:24 | 美術ノート
 城らしきものが煉瓦積みの上にある。並んで水の入ったコップと薔薇一輪。背景は砂浜・海、そして明るめの曇天。
 城はおもちゃのように小さく見える、傍らのコップや薔薇を除けても小さく見える。なぜなら煉瓦というものの大きさを鑑賞者は経験上よく認識しているからで、煉瓦の代わりにそびえたつ山々にでも変えれば、その時初めて城は巨大なものに見えてくるに違いない。もちろん並列したコップや薔薇においても。

 海や天空の果てしないほどの広さは熟知している、自然は不変であるといっても差し支えない。そして薔薇において同じような理念から、巨大な薔薇というものは存在しないから、もの(世界)を見る尺度になりうる。煉瓦は人工物であるが、積み上げるという用途のため、大きさは限定された基準がある。

 これらの条件に並置された城、本来権力の象徴である城は見上げるほどに巨大であるはずのものである。しかし、こんな風に「手の力=表現の嘘」によって小さく見せることも可能である。


 手=表現による錯視。

 鑑賞者をやすやすと錯覚させる技、洗脳の恐怖はここにある。私たちが信じているものは、こんなにも簡単に変えられてしまう。
 手=表現力の魔法である。

 わが手の力により、またわが知恵によって、わたしはこれをなした。わたしは賢いからである。(イザヤ書)


(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『城』1969。

2015-05-20 06:13:50 | カフカ覚書
ぼくがきみを悪用しているのなら、お内儀さんも、おなじようにきみを悪用しているんだ。ところで、フリーダ、ここでひとつよく考えてもらいたいね。すべてがそっくりお内儀さんの考えているとおりだとしてもだよ、それがけしからぬことだと言えるのは、ただひとつ、きみがぼくを愛していないと仮定した場合にかぎるのだよ。


☆わたしがあなた(平和)を濫用しているのなら、言葉も同じようにあなた(平和)を濫用しているということをよく考えてもらいたい。いかに言葉が完全に正確であっても予言者の悪意は先祖への罠であり、すなわちわたし(子孫)を愛していないということと同じなのだよ。