月イチの試練の日である。いっそこの日が来なけりゃいいと…でも、必ず巡ってくる第一水曜日の過酷。
楽チンで鼻歌交じりの元気な人もいるし、毎日バイトに明け暮れているけど、水曜日は店がお休みで暇だから参加しているという人も・・・。
日ごろの訓練、というか今までの生きざまによって同じ高齢者でも体力に大きな差異が出てしまう。
まるで情けないわたし、困難が服を着てみんなの後を辛うじて付いていくという態である。
(もう辞めよう)何度思ったかしれない、そのたびに(もう少し、もう少し、ここで断念したら、老体に加速がかかる、だからもう少し…)迷いつつも今日に至っている。
そんなわけで、今日は京急三崎口駅に集合し、油壷へ向かうコースに参加する(参加させていただく)。
ああ、辛いなぁ…。でも万が一長生きした時のことを考えて迷惑にならないように頑張るしかないと覚悟を決めている…女々しくて女々しくてツライyo~♪
『秘めたる音に』
秘めたる音に、の「に」は、~するという動作・作用・状態の言葉が続かなければ意味をなさない助詞である。
秘めたる音に~、さて何なのか、曖昧というより、その結果何なのか不明である。
この2枚の真鍮の板の間に挟まれた糸玉、秘めたるというからにはここに何かが仕掛けられていると思いがちであり、某人によって何か入れられたとの付加もある。
しかし鑑賞者は外観を見ることによってしか感想を抱くことができないし、作者の意図もそれを出ることはない。作品は静止状態にあり、続行の展開を持っていない。
音はこの作品の中に秘めて(隠して)あるのだと思いがちであるが、この『に』という助詞によって推測される何らかの可能性は、『に』で終止形を取ったために無空の彼方へと放棄されている。(だから何なのか)は永遠に知ることができない。
音は振動による波でありエネルギーである。あらゆる物は移動によってそのエネルギーを発するが、振動数により人の耳に届かない音というものがあり、この場合、(秘めたる→あるかもしれないが無の状態である)であって(密やかな→あることは明らかだ微細である状態)ではない。
つまり、現存しない『音』に、あたかも有るような題名をつけているところに、デュシャンの意図が垣間見える。
音という目に見えない現象の有無を謀ったということである。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)