このところの急激な気温の低下により、夜中など寒さで目が覚めたりする。
そして今朝は鼻水とくしゃみが…、もともと花粉症だから、そのせいかもしれない。
風邪は万病のもと、出来る限り用心し、撃退したい。若い頃はよく風邪をひき長引かせたが、40歳になったとき、人生も折り返しと思い、気楽に薬に頼ろうと決断したら、すぐに治ったときには驚いてしまった。
風邪薬を常備しているけれど、息子たちの小さい頃にはまだ富山の薬売りの方が定期的に訪ねてきてくれていた。殆ど薬の減らない我が家には足が遠退いてしまったのだと思っていたけれど、全国チェーンの薬屋の展開で廃業したのかもしれない。
風邪をひいても何が何でも納期に間に合わせなければならなかった下請けの外注、夜を徹して仕上げた日のことを思えば、(風邪気味かな)などという感傷は甘い。
明日は吊るし雛作りに追浜のアイクルに行く。人前で鼻水はないから今日の内に治したい。
『罠』
壁面に眼の高さくらいの位置を測って取り付けるべきコートかけを床に釘づけする。つまり用途の剥奪である。
意味をもって作られた物の意味を消失させる無意味な行為、『罠』と名付けられたこの物は人を躓かせるための罠というわけではない。
思考の罠であり、だますというよりは試す、問答のような罠である。
第一に邪魔である、どかすにも釘づけでは避けて通るしかない代物と化しており、誤って踏んでしまうかもしれず、破損をも危惧される設置である。
この有用なコートかけは床に置かれたことで無用の長物に転落している。
床への設置を見た鑑賞者は、何か他の物を暗示させているのではないかと想像してみる。この物の持つ形態が想起させる波、あるいは連続のイメージ…。しかし、この物には作家の意図を伝える手作り感が欠如している。
だからこそのレディメイドは、本来の使用目的を不可能になるように提示されており、設置場所の奇異な置換によって《無意味》を浮上させたのである。
意味の剥奪、無意味の提示はデュシャンの一貫したテーマである。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のやうな青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞ってゐるのが見えました。
☆自由な弐(二つ)の果(結末)がある。
想(思いめぐらす)章(文章)には綿(細く長く続く)平(平等)がある。
過(あやまち)を憎み、照(あまねく光があたる=平等)を貫く運(めぐりあわせ)の章(文章)が現れる。
しかし、長くはいないのです。新しい人たちほど
、そそくさと別れを告げていきました。いつもは悠然としてもったいぶっているラーゼマンは、はいってくるなり、部屋の面積をしらべようとでもするかのように、ぐるりとまわりを見まわしたかとおもうと、それだけでもう出ていってしまいました。
☆しかし、長くはとどまりませんでした。一番の友人ほど大至急で別れを告げました。いつもは鈍いラーゼマンも入って来るなり部屋の広がりを調べようとするかのように辺りの先祖の光景を見て素早く出て行ってしまいました。