花が枯れるように人も枯れていく、自然の理であってこれに逆らうことはできない。
昨日のサークルでも、侃々諤々…老化現象の話で盛り上がった。
中でもYさんの
「歩いていたら、右の眼の中からもやもやとした黒いものが煙のように湧き出たの。驚いて近くの眼科へ走り込んだらお休み、教えられた他の眼科へ行って診てもらったら、網膜に穴が開いているっていうの。ショックよね。瞳孔を開いて麻酔をかけて、それからピストルのような衝撃のレーザー治療を受けたんだけど、脳天に響いたわ。数えていたら150回は打ったわね。」という話は衝撃だった。
「それにしても、どこかしら不具合が出るのは仕方ないことね」とKさん。
わたしも目が充血しがちなので、洗面所・机の上・寝室と、それにバックの中にまで安価な目薬を常備し、一日に何回も目に差している。そのうえ、膝痛・肩こり・倦怠感etcに悩まされていて健全とは言えない日常である。
一寸先は分からない高齢者の日常、
「年を取るってこういうことなのよね」一同肯き、納得。
白露や 死んでいく日も 帯締めて(三橋鷹女)
頑張れるかな、自信ないけど自分自身として襟を正して邁進する所存(?)であります。
『櫛』
必携と言えるかもしれない小さな櫛である。
櫛の形態から浮上する一種の思考は、《平等と矯正》であり《均一と強制》である。平等と矯正は人権の基本であるが、均一の強制は人権の剥奪ともなり得る権力志向を暗示する。
これら相反する意味の浮上、すなわち《矛盾》というものを、この小さな櫛の形態に見出すことができる。
デュシャンは何気なく使用している日用品の中に、使用目的とは違う視覚からくる感慨に出会ったのではないか。
髪を並べておさめるという使用目的を持つ櫛の、全く異なる側面を感じることは殆どの場合有り得ない。そのような目的で作られていないからである。
故に目的を外した《場》をもって、櫛を提示したのではないか。
櫛という形態に内在する、あるいは付着した意味の提示である。
矛盾もまたデュシャンのテーマを支える礎である。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
「あゝそんなんでなしにたったひとりのほんたうの神さまです。」
「だからさうぢゃありませんか。わたしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前にわたしたちとお会ひになることを祈ります。」青年はつゝましく両手を組みました。
☆真(まこと)の法(神仏の教え)の神が漸(しだい)に解かる記であり、照(あまねく光が当たる=平等)の念(考え)を慮(あれこれ思いめぐらし)守る礎(物事の根本)である。
そのとき、アマーリアは、これまでになかったような優越感をこめて、お城の人たちのそういう話をあまり信用してはいけない、あの人たちは、こういう機会にはいつも耳ざわりのよいことを言うものだ、しかし、そういう話は、ほとんど意味がないか、ときにはまったく意味のないこともある。口にしたかとおもうと、もう永久に忘れてしまっているのだから。もちろん、つぎの機会には、またぞろ一杯食わされるにきまっているのだけど、と言いました。
☆そのとき、アマーリアは、これまでにない先祖の優越感について言った。大勢の人たちの話を信用してはいけない、彼らはいつも親切にしてくれるが、あまり意味がないか、口にしたとたん忘れているのだから。もちろん小舟の件には再び関わってくるのだけれど、と言いました。