『9つの雄の鋳型』
2枚のガラス版で挟んだというこの作品、油彩、鉛線、鉛箔を使用とある。
鋳型というには平面であり、鑑賞者には「立体を想起せよ」の暗黙の指令がある。
雄の鋳型とは何だろう。雄と限定し名付けられた鋳型ではあるが、雄の決定的な要素を見いだせない。ファッションカタログの挿絵との相似は単に偶然なのではないか、むしろ似ていないと思う。
衣服をイメージしているとは言い難い。強いてあげれば、二本脚の形態があるが、膝から下が左右に離れた形を持つズボンなど無いし、そういう足の状態は歩くのに非常な困難を伴う。
他の8つの鋳型と呼ばれるものは、辛うじて直立した静止画像になっているに過ぎない。
結論から言えば、これらの画像は、9つという数字だけが合致しているが、雄の鋳型という奇妙なタイトルに合致しない。
雄のタイプが9つ程度に分けられるのもおかしいが、職業まで被せているのは全くのナンセンスである。
デュシャンは雄(男性)をイメージしていない。全くの偶然性をもって鋳型(衣服)を創意し、むしろ雄のイメージを払拭しながら役に立たない不必要な形態を希求している。
雄と雌、この両性を解放しているとも言える『雄の鋳型』は、金属(鉛)を使用し、肉体(有機質)を打ち消している。(身体に鋳型などというものは存在しない)
作品と鑑賞者の眼差しとの間に生じる質疑(肯定と否定の揺らぎ)のエネルギー、それこそがデュシャンの意図する《形なき見えない作品》である。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
「うん。僕だってさうだ。」カンパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
「けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
☆目(ねらい)が現れるのを累(次々重ねていく)。
逸(かくれている)態(ありさま)の果(結末)を運(めぐらせている)。
しかし、彼も、とうとう切りだしました。それは、わたしたちのひそかな願いをかなえてくれるものではなく、人びとのはやしたてる声や怒声にこたえるものにすぎなかったのですが、とにかく語りはじめました。
☆ついに受け止めましたが、なるほど、わたしたちの秘密の願いを叶えることではなく、人々を鼓舞し不快に呼びかけるものだったのです。それは、噂に相当するものでした。