今、わたしが座っているパソコンの下には団扇がある。ついこの間まで、ここに座るとこの団扇で扇いで流れる汗を鎮めていたのに・・・。
今朝は電気座布団の電気を入れ、足には毛布、肩には一枚上着を羽織った。ストーヴやエアコンを点けるほどではないけれど、秋本番の寒さである。
めくるめく日々は過ぎ去っていき、わたしの衰退に拍車をかけていく。
(寂しくて虚しくて・・・)
自然の理の中を生きている、人生という列車が黄昏を直進している。
寒いと、考えまで硬直し切ない流れに巻き込まれてしまう。
まだまだ、明るくて楽しい日々だと夢想することくらいはできる。無理にもそう思い込み、今朝の冷え込みを清々しいと甘受したい。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
(鳥かごに入れられた152個の角砂糖型大理石、温度計、イカの甲)
ガラクタである。意味を見いだせず、美しくもなく、奇妙な混在でしかない。
本来、生物(小鳥/有機質)を入れるべく作られた容器に、大理石・温度計・イカの甲という無機質なものを詰め込んでいる。大理石は利用価値を疑うほどの小さな立方体に刻まれ、温度を測る必要のない物体の中に温度計を差し込み、イカの甲という死骸を付け加えた鳥かご。
全体、それぞれの物に必然性がない。循環の関係性が皆無である。
デュシャンは、《無意味》を熟考し、意味を見いだせない関係性を追及している。
《有》をもって《無》を提示せしめたのである。
空気を『パリの空気』というように、《無/見えないもの》をもって《有》を差し出したことと表裏である。
無は空中(見えないところ)にあるのではなく、存在の中にこそ《無》が潜んでいることの証明である。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)
そのときすうっと霧がはれかゝりました。どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。
☆謀(はかりごと)の講(はなし)は、我意である。
禱(神仏に祈り)、照(あまねく光が当たる=平等)を伝え、導(教えみちびくこと)が逸(かくれている)。
裂(バラバラに離れる)Two(二つ)がある。
しかし、父のほうは、この日のことでもうすっかり疲れはて、絶望しきっていますので、他人に助け舟を出すことなんか思いもよりません。それどころか、そもそもなにが問題なのか考えめぐらすこともできないほど疲れきった様子です。
☆しかし、父(先祖)のほうは、この日のことですっかり疲れ、絶望していましたが、ゼーマンについては助けることができたのかもしれません。ただ、この事件を考えるには疲れ切った様子なのでした。