外出が極端に少ないせいか、外へ出るとまるで子供レベルの幼稚さで狼狽えてしまう。
京急追浜駅からアイクルへ行く、ただそれだけの行程であり、すでに追浜駅に辿りついているのだから、この先よほど迷うなら(タクシーにでも乗れば簡単に行き着けるはず)と言い聞かせながらも、バス乗り場の1番を捜し、並んだ。けれど、誰一人並んでいない。バスの停車時刻は1分前(もうすでに通過したのだろうか)、案内の紙面には1番もしくは3番とあったので3番へ行って見たけど、ここも誰もいない。
もちろん人に尋ねながらのバス停探しで、バス停にたどり着くまでにかなり神経は疲労している。時計を見ると9時15分、9時3分のバスがここまで遅れているとは考えにくい。
頭が混乱する中、親切な方が「今停まっているバスの運転手さんに聞いたらどうでしょう」とアドバイスしてくれた。2番乗り場である、(とにかく向こう方面だ)という曖昧な確信で、運転手さんに聞くと、「アイクルには行きません」という、しかし、畳みかけるように「近くまでは行きます」というので、胸をなでおろし席に座った。(不安のため腰が浮いていたかも・・・)
教えられたバス停で降車すると、運転手さんは「とにかくこの道をまっすぐ歩いていけば着きます」と言ってくださった。
工場地帯を道なりに進んでいくと、《在りました!》
アイクルでの《吊るし雛の講座》、帰りは同じ方角の4人で楽しくおしゃべり。
(外へ出ないと、もっともっと頭の中は退化していくに違いない)5回講座、残り4回は楽しく通えそうな予感。昨日は七宝毬を作ったけど、まだ未完。今日は黒と白の絹糸(もしくはポリエステル)を買いに行く、色糸ばかり揃えて肝心の黒白がないというお粗末。
パニックな一日だったので先生のお名前は・・・先生、ありがとうございました。
『自転車の車輪』
シンプルであり美しくさえある。しかし、この単純平易な物には機能性が欠如している。この物をいくら回転させてもエネルギーは放出されるばかりで、実用的な運動エネルギーが生み出されることは絶対に無い。
この自転車の車輪をあたかも象徴のように提示することの意味とは何だろう。
動かす(回す)ことの無為は虚脱感を生じさせる。《無意味》が生み出す《空漠》、存在しているが生産性のない無のようなものである。
この自転車の車輪は、鑑賞者に感動を与えるだろうか。奇異なものとして、ちょっと悪戯に回転させることはあるかもしれない。しかし、それきりであリ、その場を立ち去るほかはなく(何を見ただろうか)と反問することもないのではないか。
しかし、展覧会場という《場》に於いてのみ、自転車の車輪(レディメイド)と鑑賞者のあいだに奇妙な空気が生じる。
《無窮の無為》の衝撃である。
泣くことも笑うことも許されるが、やがて沈黙するしかないしじまに襲われてしまう。
地球の回転を宇宙の彼方から見れば、単に自転車の車輪ほどのものではないだろうかと・・・。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりたうたう十字架のちゃうどま向ひに行ってすっかりとまりました。
☆伝える等(平等)は秘(奥深くて計り知れない)尊いものである。
赦(罪や過ちを許す)自由な果(結末)の考えの講(はなし)である。
ブルーンスヴィックも、やってきて、下請け職人をやめさせてもらいたいと申し出ました。一本立ちになりたいのだ、と悪びれずに言いました。機を見るに敏な抜け目のない男なのです。
☆ブルーンスヴィックもやってきて、契約解除を通知しました。自立したかったのです。まったく正直で機敏な知力の持ち主でした。