母が亡くなった年齢を5年も過ぎている。
本当にわたしはこの世に生きているのだろうか、ひどく不安定な気分に襲われることがある。
(もうどうなってもいい)という悲観は、冷静になると《生きるだけは生きよう》という前向きに転化する。悲観と楽観のあいだを揺れ動いている。
要するに明確な目標がないのである。
ボンヤリと死を見つめ、待っている。(お婆さんはいつ死ぬの?)と、聞いた子供の話を読んだことがあるけれど、(わたしはいつ死ぬの?)と、自問している。
それでも、《生きないわけにはいかない》という今日という日に支えられ、何とか生きている。
明日がどうなるかなんて…、考えても仕方がない。
近隣の高齢者が一人、二人三人と亡くなっている。(そのうち…)逝くことは必至だけど、今日はとりあえず元気を出して行くしかない!
『接近する金属の中に水車のある独身者の器具』
接近する金属って、おかしい、金属が自動的に接近することはない。
金属の中に水車があるのも、おかしい。水車は言わずと知れた水流の上にあるべきで外側に金属があれば、単に邪魔であり、抵抗となり水流の勢いを弱めるだけである。水車の中に独身者の器具って何?何も無いものを有るようにタイトルをつけている。
図って描かれているように見えるが、遠近に不具合があり、視点を某所におけば他所に歪が出るという具合だし、水車もどこに支えられているのか不明である。
つまり、一見精密に描かれている風であるが、解体を予期させるしかない構造である。
機能しない、無に帰すように描いているのはデュシャンの意図であり、その意図を看破されないように描く創意である。
起承転結のサイクルが飛散していて、始まりと終わりが見えないのである。作品のどこが焦点なのか探そうとすると、存在の欠落に出会うばかりで、作品の正体が霧消してしまう。
意味の把握が困難である以上に、意味そのものを打ち消していることに気づかされる。
デュシャンは《有》をもって《無》の意味を誘導している。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
「僕わからない。」カンパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新しい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。
☆黙って運(めぐらせている)。
目(ねらい)は教(神仏のおしえ)の真(まこと)の力である。
幽(あの世)を測(予想し)運(めぐらせている)。
わたしたちは、依然として希望を棄てていませんでした。ゼーマンは、父にたいへんな賛辞を呈することからはじめ、父を消防団の誇り、後進者の手のとどかない模範、欠かすことのできない団員と呼び、このような人物にやめられたら、消防団が壊滅に瀕することは必至である、と述べました。
☆わたしたちはまだ希望を抱いていました。彼は父(先祖)への称賛を広めることから始めました。先祖の団結は誇りであり、後進への欠かせないメンバーと呼び、このように除外されたら団結は破滅せねばならなくなる、と言いました。