続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『吊るし雛』講座の復習。

2016-10-27 07:06:14 | 市民講座

 学校の勉強を復習したことがなかった。

 なのに、『吊るし雛』の講座は復習。
 七宝毬は、綿を入れるのが大変だったけど、何とかもう一つを仕上げた。桜は比較的簡単なのでたくさん作って吊るすのもいいなと思っている。

 不器用この上ないわたしだけど、縫物はすごく楽しい!


デュシャン『階段を下りる裸体』

2016-10-27 06:13:46 | 美術ノート

 『階段を下りる裸体』

 裸体というような肉感がなく、きわめて物質的(板状を思わせる)である。裸体と明確に表明しているのに裸体からは遠い。しいて言えば、服飾がないという点で裸体と結びつけることができるかもしれない。

 裸体らしく見えるものは、階段を下りているらしく連写をつなげているが、それはタイトルに照らし合わせて、そのように見えるだけである。何の注釈もなければ、ただガシャガシャした謎のような絵図に過ぎない。

 しかし、あくまで『階段を下りる裸体』であり、タイトルが想起させる領域には拘束力がある。文字という記号には、それを決定づける約束がある。
 階段を下りるという下降の連続は、時間・空間の変移を一枚の平面に集約したものであり、《虚》である。
 階段は円形にカーブしているし、裸体はどこかタガを外せば一気に崩壊を余儀なくされるようで重心が計測できない。(膝を曲げている足、少なくても瞬間的には片足を階段に垂直に下ろす必要があるのではないか)

 階段を下りることや裸体であることの必然性がない。
 描く景色の焦点が見えない、たしかに落下していく不安定なイメージを感じるが、それ以上ではない。

 連続(継続)する時空を停止の一枚に留める実験は無意味である。デュシャンはその無意味をあえて《意味の剥奪》という観点で捉えようとしたのではないか。従来の絵画が持つ感動の美から一番遠い所を目指した《文字≠現象》という破壊である。


(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)


『銀河鉄道の夜』278。

2016-10-27 05:08:28 | 宮沢賢治

そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちゃうど挨拶でもするやうにぽかっと消え二人が過ぎて行くときまた点くのでした。


☆普く図りごとがある。
 全て二つの講(はなし)の分(文章)であり、等(平等)を化(教え導いている)。
 相(たがい)を、察(よく見ると)章(文章)の字の図りごとの果(結末)の考えが展(ひろがる)。


『城』2463。

2016-10-27 05:00:30 | カフカ覚書

なにも知らないわたしたちは、ゼーマンこそその人にちがいないとおもいました。そして、このいつまでもつづく笑い声のなかからいまにはっきりした言葉がとびだしてくるだろうと、固唾をのんで待ちかまえていました。


☆なにも知らないわたしたちにはゼーマンのように見えました。いつまでも続く復讐の中から、最後には透明な言葉が放たれるのだと、注意深く待ちました。