『軽業師の休憩』
石をはめ込まれた壁にバラバラになった身体が埋め込まれている女(肩などは男のようでもある)
壁・天井・床があり、室内と思えるが、背後は海を連想させる。
この石の衝立は堅固なイメージがあるが、身体は緩く変形された部分もありつつ顔・手・胸部・肩・足などのパーツは形を崩していない。
休憩ということは再び元に戻るという意味である。元へ戻れるか?切断された部位がつながるとは考えにくい。不可逆の絵図を可逆として眺めることには大きなストレスがある。
軽業師・・・普通でない高い身体機能をもって衆目の驚嘆を集める人のことである。しかし、変形・変容の術はなく、柔らかい身体が硬い石に同化するはずがない。
この不条理をもって休憩とする真意はどこにあるのだろう。
軽業師・・・普通でない思考をもって衆目の驚異を集める作家のことではないか。疲労した彼の休む場所は(初めにあり、終わりにもあるような)永遠なる石(無機質)に同化し、背後に地球の海を臨み、だれの眼にもさらされない狭所に身を置くことかもしれない。
軽業師、それはマグリット自身であり、自身の創意は(母なるものへの追慕)にあると告白している。地球の海(現世/世間)に背を向け、不条理に身を曝し、いつ倒れてもいいような立脚に身を委ねている。こんな窮屈さがわたし(マグリット)の秘密の休憩場所である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
そのうちに支那人は、手ばやく荷物にかけた黄いろの真田紐をといてふろしきをひらき、行李の蓋をとつて反物のいちばん上にたくさんなrんだ紙箱の間から、小さな赤い薬瓶のやうなものをつかみだしました。
☆詞(言葉)を納める図りごとは、衆(人々)を化(教え導く)仏の講(話)である。
真(まこと)を伝え注(書き記す)講(は葦)は、理(宇宙の根本原理)の我意である。
単(ただ一つ)の仏は常に死の総てを検(取り調べる)。
照(あまねく光が当たる=平等)の釈(意味を明らかにする)役(つとめ)の便(連絡)である。
しかし、バルナバスにとっては、これは空手形ではありませんでした。こんな約束ごとを真に受けてはいけないと注意はしたのですが、この話を聞いただけで、たちどころにわたしの計画に乗り気になってしまいました。
☆しかし、バルナバスはそうではありませんでした。なるほど彼らの話を信用してはいけないが、すでに十分わたしの計画を心得ていたのです。