孫三人、久しぶりの逢瀬(?)、どんどん成長する様子に懐かしいやら感動するやら…感無量。
折角のお盆休み、息子は妻の実家へ(静岡県)行ったり、こちらを訪ねたりで大忙し。
清一朗ちゃんも春一郎ちゃんも啓一朗ちゃんも、揃ってワンランクアップ。
わたしも風邪気味ながらがんばって奮闘、車に手を振った後はダウン、情けないおばあちゃん…三人が一人前になるまで生きているでしょうか(自信がありません)
「孫が来てくれるのは小さいうちだけ、そのうちにばったり…」とはよく聞く話である。
今が何より大切。身体に気をつけて、きっと今より楽しい未来を期待しています!
八月はサークルもお休み、ラジオ体操すらお盆休みで一週間のご無沙汰。
そのサークルも寄る年波で消滅が見えている。
「そうしたら、わたしたちどこへ行けばいいの?」とは友人の弁。本当にネ、老人然と化して「今日からお世話になる新人です」なんて…もうデイサービスしかないのかしらね。
消えゆくのみのわたし…とりあえず今日は頑張らなくちゃ。
ゴーヤは毎年よく実がつく、今年もすでに三十本以上の収穫があったのにまだまだの勢い。
伸び盛り、(勢いがあるっていいなぁ)と眺めている。
『呪い』
青空に雲の散在…なんということもない光景である。
ここにあるのは空と雲だけ、これがなぜ『呪い』なのか。ひどく漠然としたテーマであり、鑑賞者は首を傾げざるを得ない。
雲、水の異なる現象の一つであり、雨風、暴風雨、雪に変化する要因を持っている。
そもそも「呪い」とは悪現象であり、地域社会に災厄や不幸をもたらすものであるが、呪いは人の行う行為である。
だから、雲の変化のような物理的現象が呪いの主体になることはない。人の精神が元凶となり霊的な手段(呪詛)をもって為す、いわば空論である。
『呪い』とは確かに在るように感じる結果論に近いものであり、実際にその存在を確認し、証明することは出来ない。留めて検証をすることは困難であり不可能である。
『呪い』とは、見上げて見たときの《雲》に酷似している。形を留めず、有るかと思えば無く、無いかと思えば在る、疑惑を持たざるを得ないような正体への追及は、雲の存在に近似している。
あの青空に素知らぬ顔で漂う雲こそ『呪い』の正体かも知れない。(=で結べないが≒であるという精神論は通用するのではないか)
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
山男はあんまり困つてしまつて、もう呑んで遁げてしまはうとおもつて、いきなりぷいつとその薬をのみました。
☆太陽の談(話)に混じる鈍さは、頓(滞る)厄(苦しみ)である。
しかし、わたしは、自分ひとりでは失敗したことを、こんどはバルナバスによってべつなふうに、もっと確実に成功させたいとおもったのです。わたしたちは、ひとりの使者を侮辱し、はるか遠くの官房へ追いやってしまいました。
☆しかし、一人では失敗したことを今はバルナバスを通して別なふうにやり遂げたのです。先祖の小舟を侮辱し、先祖の秘書局を追い払いました。