『終わりなき認識』
室内の開口から覗く連峰、空中を浮遊する球体、その上に男(図録では小さくて男の視線の先が見えないが、手をかざし上方を見上げているのではないか)が立っている。
客観(室内からの眺望)と主観(男の視点)、どちらも、《より上》を目指している。
切り立った険しい山は、とても人が登れる勾配ではなく、むしろ人を寄せ付けない高峰、神の域を思わせる秘境である。
山は手前に来るに従って黒くなっている、つまり光源は遥か彼方の向こうという感じであるが、球体には手前に光が当たり、しかも後方からも仄明るく光を認識できる。
男は浮上する球体に乗っている、球体は重力に左右されない精神界の《真理》である。しかし男は、真理の上に立っているにも関わらず、更なる高みを臨んでいる。つまり、真理の傍らにいて真理から目を逸らしているともいえる。
山の彼方、更なる高み、存在を超え、無窮の空を探求しているかに見える。
『終わりなき認識』は、究極を目指す。すでに真理に接点を置いているかもしれないことを確信できず、真理の周りを空転させる認識の術に終わりはない。真理の存在の有無に究極の答えが無いからである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
支那人は、外でしんとしてしまひました。じつにしばらくの間、しいんとしてゐました。山男はこれは支那人が、両手を胸で重ねて泣いてゐるのかなともおもひました。
☆詞(言葉)を納める図りごとの我意が現れる。
太陽の談(話)は詞(言葉)で納める図りごとであり、霊(死者の魂)を守り、教(神仏のおしえ)に従い究(きわめている)。
(と言いますのは、バルナバスは、お城ではものを言う勇気も出せないのでした)、だれひとり助けてくれる者がないなんて、人をばかにした話じゃありませんか。そして、ある従僕が、もしかしたらもう何度か手紙を見せつけられていたのかもしれませんが、それをくしゃくしゃにまるめて、屑籠に投げこんだと聞いたときは、やれやれ助かったという気持ちでした。
☆しかし、そこでは恥ずべきことに誰も助けてくれず、明らかに先祖の救出はなかったのです。先祖の下僕たちは、ひょっとしたら、とっくの昔に証明書を強制され、くしゃくしゃに丸め、紙屑籠に投げ捨てていたかもしれません。