準備…いつ死ぬのか分からないけど、近頃の行動は総て死ぬ前の準備である。
昨日は換気扇だのキッチンの油汚れと格闘。一昨日は下水の清掃。冷房をしている間に冷蔵庫も清掃したい…以前は猛スピードでこなしたことも最近では一つづつの鈍さ。
まだなかなか死なないので、死ぬ前の準備は繰り返し行われることになる。
自分の足でしっかり歩いてあの世に行きたい希望をもっているけれど、この努力がままならない。
(リハビリ、リハビリ)
そう呟きながらも終日べったり座り込んでいる動かないこと山の如しのわたし。
準備の不備に落ち込んでいる。
行かなくちゃ、行かなくちゃ・・・出会いを求めて外へ行かなくちゃ!
奇麗な畳の上で死にたいな…そう思って畳は床から替えたが、その上敷きも新しいものにと思い、以前購入した店に行くと、上敷きはもう扱っていないとのこと。
(こちらのお店のものでないとダメなんです)そう言いかねていると、
「岡山で作っていたものなんですが、取引が今はないんです」という。
「高かったでしょう?」とお店の方。(ハイ、確か2万5千円くらいでした)
「品物が良くて今に至るまで少しも傷まないんです」(残念です)
いい物を作っても輸入の廉価には適わず生産を止めてしまう傾向。安物買いを常としている消費者のわたしにも責任はある。良い物だと気づくのはずっと後になってからだから…。
『田園』
二本の木がなびいているが、よく見ると全く同じ形態である。そして更に見ていくと、この木に見えるものは、木の根のようでもある。
背後を横切る幾つもの線状があり、地層の重なりのようである。その背後にある景色は、それこそ田園ではないか。転倒し、逆さになっている。
連続・転倒・地層…この絵が隠ぺいしている大地の変遷は田園の歴史、繰り返される輪廻、転生の時間である。
『田園』、人の手の加わらない田舎の静かにして大いなる地殻変動。
「地球は生きている」という秘かなる立証である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
支那人はそのうちに、まるで小指ぐらゐあるガラスのコップを二つ出して、ひとつを山男に渡しました。
☆詞(言葉)を納める図りごとは照(あまねく光が当たる=平等)の志である。
字で推しはかる太陽の談(話)の図りごとである。
こうして、わたしは、ほんとうに自分だけしか頼りにできなくなってしまいました。両親と気心が通じあえるのは、アマーリアのほかにはありませんでしたし、そのアマーリアにしても、わたしが父のかつての計画を自分なりのやりかたで進めていけばいくほど、わたしから離れていきました。
☆わたしは総ての先祖を頼りにすることで十分満足だったのです。しかし、アマーリアの説明のほかには何もなく、さらにそのアマーリアにしても父(宿命)のかつての計画に対し離れていきました。